第200話 楚根城(3)猿楽①

文字数 1,015文字

 孫が余興を披露致しますと一鉄が言ったのは、
猿楽だった。

 猿楽より少々簡略化されている幸若舞(こうわかまい)を、
信長自身、嗜みとして舞う他、
猿楽、幸若舞共々、価値を認識し、
伝承芸能だとして庇護を与えているものの、
十日程前も京で八番興行を見物したばかりの信長で、
しかも安土の常楽寺を発つ際も、
何と秀吉が昨今、猿楽の稽古を始めたと言い、

 「実はまだ、
お見せするようなものではございませぬが、
新たな御城を寿ぎ、一曲、是非とも」

 などと福島市松、加藤夜叉若を従え、
源氏物を舞ったので、
信長にしてみれば、
またも猿楽かという気分であろうに、
現段階では拙いと言えなくもない秀吉と小姓達の演目も、

 「学ぶ姿勢はたいしたものだ。
聞けば筑前は、
猿楽のみならず、書、歌、茶、香と、
あれこれ忙しく学んでおるという話、
於寧(おね)殿から贈られた熟れ鮨(なれずし)手紙(ふみ)が添えられてあり、
書かれてあった」

 「於寧もこの藤吉郎も不調法ゆえ、
周りの皆様の見識に
僅かでも追い付こうとやっておるところでございます」

 「うむ」

 於寧こと、秀吉の(つま)は、
姓を持っていなかった一介の小者(こもの)の男と結ばれ、
男は後年、努力と才覚で長浜の主にまで成った。
 足軽とはいえ、
於寧の生家の家風が良く作用して、
秀吉は若い頃から教養の吸収に取り組み、
今や時に猿楽まで習っているのだった。

 上様の御目にかける程のものではないと言いながら、
筑前殿はさも楽し気に舞い、
謡っておられた……

 常楽寺での源氏物の舞を思い出すと、
秀吉の何やら憎めぬ満悦ぶり、
市松の珍しい神妙さ、
一方、二人に対し、
夜叉若の半ば渋々付き合っている風情が面白く、
常楽寺を出立後、信長に、

 「三人を横目に黙々と支度をし、
片付けておる佐吉を見たか。
あれこそ可笑しかった。
主が(はしゃ)いで、縁戚の小姓達が共に踊り、
佐吉は佐吉で猿楽を知らぬわけではないであろうに、
あの腕前で披露しようという主と若輩達を、
あれはおそらく困惑し、呆れておった。
左様な四人が笑えたわ」

 と仙千代は言われ、
同調の意で微苦笑を返すしかなかった。

 とはいえ、
万事に貪欲な秀吉はやはり痛快であり、
信長のみならず、仙千代も、
最後には感嘆の思いが強く残った。

 さて、稲葉殿の御孫様達は、
如何なる舞を披露されるのか……
聞けば、(よわい)、八つ、九つの方々だという……
 さぞ、御可愛らしいのであろうなあ……

 岐阜への帰還を思い、
陽の傾きを幾らか気にしつつも仙千代は、
穏やかな気配を纏って演目を待つ信長に侍り、
慎ましく控えた。




 

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