第61話 岩村城攻め(5)公居館⑤

文字数 1,134文字

 「使者を遣わしたは無駄だとも?
しかも上杉、武田が手を結ぶと申すか」

 仙千代は未熟者の私見ではあるがと述べて続けた。

 「上杉が武田の版図を手中にするには、
武田と組んで織田家、徳川家を蹴散らした上、
武田を追い込み、奪い取るしかありませぬ。
今、織田家に(くみ)すれば、
勝頼敗北後の信濃・甲斐は、
上杉、織田の草刈り場となりましょう。
やがて冬になり、雪が降る。
越後の上杉は不利となり退却の憂き目に遭えば、
何が為、武田攻めをしたのかと、
何の収穫もない有り様に。
そこで果実を得るのは駿河を手中に収める徳川家。
何も今、
そこまで浜松殿を太らせる義理もございませぬでしょう。
上杉に報せてやったは上様の礼に適った御振舞い、
よもや無駄など、微塵も思っておりませぬ」

 仙千代自身、
日根野弘就(ひろなり)から耳にした一言が、
ここまで自分の中で膨らんでいたとは意外だった。

 ある時、弘就は、
仙千代に重々しく告げた。

 「……晩年の信玄公は、
四郎殿に重ねて伝えておられたという。
新たな代では上杉と手を結べと。
織田は巨木となった。
支える徳川も根が強い。
自身は意地と誇りが邪魔をして、
上杉と戦っては無駄な血を流した。
上杉と組み、織田に対峙していく他はない。
新たな時代は、
新たな道を歩むべきなのだと」……

 信長の敵対勢力のみを渡り歩く生涯だった弘就が、
長島征圧戦での敗北を受け、信長に降りた。
 信玄の言葉は、
それを口にする弘就自身に向けたものでもあった。

 仙千代は何故それを信長に告げぬのかと、
弘就に至極当たり前の尋ねをした。

 「私は武辺者。
今まで生きてきて、よう分かったのでござる。
鷺山殿が、
上様に仰って下さったという有り難い御言葉……
確かに日根野は上様の敵にばかり付き、
上様の一門衆、重臣をあの世へ送った、
しかし一度として主君を裏切ったことはないと。
鷺山殿の御兄弟二人を誅殺したこの身に対し、
左様な御言葉。
涙が落ちる思いでござった。
そして、余りに遅くはあるが知ったのでござる。
私は武に生きる者。
(まつりごと)は正直、苦手だ。
信玄公の遺言も風の戯言(ざれごと)
(たま)さか万見殿と語る機会がありました故、
申し上げは致しましたが他意はござらぬ。
その言の重さも価値も、
私では判断つきかねるのでございます」……

 信長に抵抗するばかりの過去を抱いた弘就は、
一方で、武功は華やかであり、
戦績は世に轟いていた。
 しかし戦乱の世の趨勢は信長に傾いて、
弘就は敗北を重ね、
政治権力自体への興味を失った。
 それでも先の長篠の戦では、
縁者である信長の忠臣、金森可近(ありちか)の与力として、
目覚ましい働きを日根野一族はあげてみせた。

 戦場での働きは何もない自分が、
青い口で偉そうなことを言ったと思う反面、
弘就の貴重な言を信長に伝えることができたことは、
仙千代の心に一陣の風を吹かせた。


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