第329話 姉弟の願い

文字数 2,173文字

 次の間には三郎、勝丸が居た。
 謁見の間に同室しているわけではないが、
信忠の近侍であるから襖は開けられており、
会話の一切、聴いている。

 仙千代は三郎と目が合った。

 「お連れできるのか、御方様(おかたさま)

 三郎が小声で訊いた。

 「さあ。策を授けるか?儂に」

 すると勝丸が、

 「三郎殿の策は九分九厘、
仙殿の策と同じでしょう」

 仙千代は肯定の意で微かに笑んだ。

 利治に、

 「万仙、早う」

 と促され、

 「はっ、直ちに」

 と仙千代は信忠の新たな傳役(もり)の背を追った。

 向かう途中、利治は、

 「御方様の此処(ここ)を離れぬという御心情、
儂には分かる。
 万仙も想像がつくのではないか」

 と水を向けた。

 「若輩の身にて、
御心の深きところまでお察し申し上げることはできませぬが、
岐阜を継がれたばかりの殿をお思いになる一心。
 左様なことでございましょうか」

 歩を進めつつ、利治は頷いた。

 「我が父が岐阜は婿に譲ると書き遺し、
死して十九年。
 その遺言を上様が成し遂げられて、
我ら姉弟(きょうだい)の悲願を叶えて下さり、
入城されて八年。
 八年といえば生まれた赤子が読み書きをする年頃だ。
 だが美濃は広い。
岐阜、西濃、東濃、中濃、
そして境界定まらぬ飛騨の一部。
尾張の何倍あることか。
四倍、五倍、いや、六倍か。
 左程に広い領内は上様の御威光に従わぬ土豪や武将が、
山陰(やまかげ)に未だ潜んでおるやもしれず、
まして、甲斐の武田が信濃を制圧し、
長い国境線を接して美濃を圧迫しては、
地侍衆を調略せんと常に(うごめ)いておる。
 斯様な状況下、御方様の思いとしては、
斎藤家の姫として、
岐阜の重しにならんという御気概なのだ。
 上様の御蔭をもってして豊かに暮らす岐阜の民だが、
織田家は元が尾張の出だと言う不心得者が無ではない。
 美濃が斯様に富裕の国となったのも、
大きな海を持つ尾張と共にあるからこそだ。
 戦場にならず、一揆も無く、
日々、耕し、商い、誰もが腹いっぱい食える。
 斯様な国が日の本に幾つ有ると言うのか。
この恩を忘れてはならぬ。
 また何よりも、天下人の本領地として、
美濃は断固、護らねばならぬ。
 美濃の国体はすなわち、岐阜の殿。
我ら姉弟は殿をお護りすべく、
この国が微塵の揺れもない日を迎えるまで、
城介(じょうのすけ)殿のお側を離れるわけにはゆかぬのだ」

 「それが御二人の願い……」

 「血で血を洗う闘争の末、
ようやく得られた今のこの姿。
 儂も姉上も、岐阜を、美濃を、
二度と戦場にしたくはないのだ。
 殿の治世が盤石な上にも盤石となるまで、
姉上は殿をお支え致す御所存であるに違いない」

 「はい」

 とはいえ信長とて、それは知っているはずで、
それでも尚、鷺山殿を安土へ呼ぼうというのは、
信長が語った通り、
城造りは権威をもって進めるべきで、
奥向きの差配を鷺山殿が担っているからには安土へ出向き、
「奥」の縄張、(しつら)えを、
指示する必要は確かにあった。

 「御方様の身が二つ御座いますれば……」

 思わず漏らした仙千代に利治が笑った。

 「確かにな。
あとは、端的に言って、
まあ、母心というものか。
 姉上が以前、ふと仰った。
 松姫であれ、どちら様の姫であれ、
若殿が(つま)を迎えられ、
上様の御嫡孫を授かるまでは、
養母(はは)として責務を果たしたとは言えぬ、
いずれ、遠くない将来、
若殿の御世継をこの腕に抱きたいものだと」

 やがて二人は鷺山殿の部屋の前に来て、
利治が侍女に来訪を告げると、

 「御方様はそろそろお休みでございます」

 と返った。

 利治が何をか言わんとしたところ、
仙千代が、

 「畏れながら」

 と入り、一言、述べた。

 「殿がお待ちでございます」

 暫くの後、凝った造作の板戸が音もなく開き、
眼の前に鷺山殿が立っていた。
 今日は早々に床入りするという話だったが、
鷺山殿は落ち着いた色合いながら豪奢な打掛姿で、
日中の着物姿のままだった。

 「若殿……いや、今日より殿でしたね。
岐阜の殿が?お待ちでいらっしゃる」

 謁見の間には信忠が居る。
 仙千代は、

 「はっ、殿がお呼びでございます」

 と涼やかに重ねた。

 鷺山殿は、

 「分かりました。
髪を整え、直ぐ参りましょう」

 と答え、侍女を従えて室内へ戻ると、
左程せず姿を見せて仙千代に、

 「上手いことを言いますね。
ほんに殿が御指名なさいましたのか」

 と問うた。

 尋ねられた仙千代より先に利治が、

 「御方様の泣き所、
いや、御気性を万仙は見抜いておりますな」

 と、いかにも安堵の態で軽口を挟んだ。
 (てこ)でも動かぬと信長が呆れてみせた鷺山殿が、
信忠が呼んでいるとなれば即座に受け入れたのを、
面白がって言ったのだった。

 「私でなくとも、三郎でも勝丸でも、
同じ策をお使い申し上げましたでしょう、きっと」

 悪びれぬ仙千代に鷺山殿は、

 「仙千代は慎ましく、
三郎は微笑ましく、勝丸は愛らしく、
皆々、あれほど可愛らしかったに、
いつの間にか煮ても焼いても食えぬ若党に。
 すわ、何ぞ、殿がお困りかと、まんまと」

 と睨む真似をした。

 「鷺山殿、
御小姓達を煮炊きするおつもりでおられたのですか。
流石、あの父が、
もしこの姫が男子であったならと言われただけはある」

 と、利治。

 「これ!口が過ぎますよ」

 鷺山殿と利治は笑うとますます面立ちが似通っていた。
 往時の「岐阜の殿」、斎藤道三公は、
果たしてこのような御尊顔であられたのかと、
仙千代は鷺山殿と利治をそっと見比べた。


 

 

 
 


 


 
 

 

 



 

 
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