第279話 祝賀の日々(9)神鹿①

文字数 692文字

 昨年、信長が興福寺の鹿を捕縛して、
京へ運ばせたことがあったのを、
仙千代は思い出した。

 「上様、もしや、またも……」

 「(ばん)に言い付け、
今年も捕えて連れて来させた」

 塙とは無論、大和守護 塙直政だった。

 「今回は何頭なのです」

 「三頭……いや、四頭居ったか」

 「この鹿肉は……」

 「神鹿(しんろく)だと言ったらどうじゃ、興福寺自慢の」

 鹿は古代から生息していたが、
角が毎年生え変わり成長していくことを(よみがえ)りや
豊作祈願の対象として霊獣視されるようになってゆき、
平安時代を経て奈良の鹿は、
鹿曼荼羅図が描かれるほど神聖視されるようになっていた。
 
 興福寺は山階寺と厩坂寺という二寺院を前身として、
平城京に京が遷った和銅三年、
天正からすれば八百年前に建立をみた。
 寺は平城遷都を企画、主導した藤原不比等を本願として、
以降、藤原氏の栄華と共に最大時では、
大和の半分を領有し、
神仏習合思想の潮流下、春日社と合体すると、
興福寺が社を運営、管理した。
 神の使いとして鹿は保護を受け、自然繁殖し、
また寄進されることもあり、
人々は大切に扱う一方、
室町時代には鹿の殺傷は死罪とされて、
たとえ童の起こした偶発的な事故であろうと、
神の使いを殺め、
ひいては興福寺の権威を冒涜したとして、
等しく処罰は免れなかった。

 美味に舌鼓を打った肉はもしや「神鹿」かと
複雑な思いを抱かぬではない仙千代だったが、
本願寺に詫びを入れさせ、
稀代の名物を手に入れ、
珍しく郷愁を隠しもせず烈臣、
平手三代を懐かしんだ信長の機嫌は、
今の今、損ねるに値しないと踏み、

 「神鹿であれ、野の鹿であれ、
鹿は鹿でございます」

 と答え、
敢えて尚も一切れ、口へ運んだ。

 
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