第346話 尾関邸(3)三郎の深慮②

文字数 875文字

 三郎は仙千代が注ごうとした酒を
要らぬという素振りをし心情を放った。

 「一流の猿楽役者とて河原者は河原者。
 浅井長政殿の父君(ふくん)、久政殿は、
鶴松大夫なる猿楽師に長年目をかけ、
落城の際、自刃の介錯をさせ、
鶴松自身は御殿の中での切腹は畏れ多いとして、
庭へ下り、追い腹したのだという。
 猿楽の名手さえ、死に際して地に降りる。
 世に名だたる世阿弥(ぜあみ)とて、
足利義満公の寵愛ぶりに公家衆が眉を(ひそ)め、
義満公は非難を浴びて幕府の権威に影が差したと言われる。
 まして山口は流浪の一座。
 にもかかわらず我が殿は、
禿童(かむろ)の舞い、歌に惹き込まれ、
大いに慰みとされたは明白。
 万が一にも小弁を召し上げぬかと儂は危ぶむ。
 千歩譲って下足番、庭番あたり、
小者仕事なら許容もしよう、
が、ああした者が殿の側仕えとなってはならん。
 御役目で有職故実(ゆうそくこじつ)を習っておるが、
知れば知るほど序列というものは重きものにて、
秋田城介(じょうのすけ)たる岐阜の殿の近習が、
よもや河原者とはあってはならぬ。
 殿に恥をかかせるわけにはゆかぬ。
 近々殿は拝謁を賜り、
城介就任の御礼を帝に為さる。
 城介ともあろう御方の近習にああした者が紛れ、
殿上人たる我が殿の束帯に河原者が触れるなど……。
 一座に立ち去ってほしい。
早う失せてほしいのだ、
殿の目の届かぬところへ」

 手酌で三郎は盃をあおった。

 「殿のお幸せの為、
尽くすべきだと思いはせぬのか」

 声を振り絞った仙千代に三郎はたたみかけた。

 「梅之丞は山口の出。
小弁を含め、座員も同様にて、
西国の衆を警戒するは近侍として当然であろう。
 毛利、大内……西国は強敵がひしめいておる。
 流れ流れて足利義昭も今ではあちらだ。
とりわけ毛利は本願寺と縁が強く、
義昭もまた同様。
 たかが旅役者と侮ってはならん。
山口梅之丞……
西の有力者と結び付いておらぬとも限らず。
 危うきものを近付けてはならん」

 小弁を思えば三郎の危惧は大袈裟であるとして
救ってやりたい衝動に駆られぬではないが、
信忠が小弁という存在に懸想(けそう)して、
もしや召し寄せるようなことにでもなったなら、
思うだけで仙千代の心は高波が立った。

 
 


 



 
 

 

 
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