第374話 声

文字数 1,082文字

 駆け寄って仙千代、彦七郎、彦八郎は誰先に、
小弁、小弁と叫んだ。

 小弁は薄っすら目を開けて何か言おうとしたが、
誰とも話さぬ日々や栄養、水分不足の為、
干からびた上下の唇が離れなかった。

 それでも譫言(うわごと)のように、

 「寄るな……行け……」

 と微かに聴こえた。
 目に見えぬ檻に入れられ虐げられて育った小弁は、
折檻を恐れ、
ここには居ない梅之丞をこの期に及んで尚、
恐怖している。

 傍には小さな椀に雑穀粥があった。
 トラ、フジが纏わせた(わら)の破片が浮いていた。
 粥は口がつけられた跡がなかった。

 彦七郎が小弁の額に手を当て、

 「これは!」

 と目を(みは)り、彦八郎も、

 「熱が!」

 と仙千代を見、指示を仰いだ。

 一瞬、魔物が囁いた。

 ここは儂ら三人と何処ぞの童二人が居るのみ、
ならば何も見なかったとして立ち去ったとしても……
 何処にもよくある話で、
哀れな童が病で死んだというだけだ……

 しかし囁きは、
胸を切なさでいっぱいにする爽快にして優し気な声により、
吹き払われた。

 「あと一度、あの歌が聴きたいものだ」

 信忠の声だった。
 信忠が小弁の歌を気に入って、
洩らしたという一言だった。

 領国の主ならば何とでも理由を(かこつ)け、
一座を()んで再び観劇しようと誰も非難はできないものを、
信忠は地位に甘んずることなく自重した。
 その信忠を三郎は自慢だと言った。
 三郎とて、その自重は辛抱と同義であると知っていて、
仕える身として、主の尊さを表していた。

 三郎、許せ!
 小弁は河原者じゃ、
乞食集落の売られた童じゃ、
父は分からず、母は酒毒じゃ、
そして西国の生まれじゃ!
 じゃが、殿の宝物なんじゃ!……

 ふと背を向くと、兵太、兵次、美稲(みね)が居た。

 「兄上……それは……人ですか」

 藁に籠った小さな塊を美稲の澄んだ瞳が見ていた。

 仙千代は迷いを捨てた。

 「そうじゃ、人じゃ。
失わせてはならぬ、大切な子じゃ!」

 言葉と同時、市江兄弟が板戸を剥がし、
そこへ小弁を抱き上げ、横にした。

 「儂らが!」

 と兵太がざくっと進むと兵次も続き、
板戸を持った。

 「トラ、フジ!」

 「はい!」

 「はい!」

 仙千代の号令に、
トラとフジも駆け寄って共に板戸を持った。

 兵太が、

 「先に向かいます!」
 
 兵次は、

 「旦那様に何とお伝えしましょう」

 仙千代は、

 「分かっておろう、父上は何も訊かれぬ。
ただ厚く看るように仰るだけだ」

 兵太、兵次は強く頷き、
美稲は着ていた羽織を小弁に掛けた。

 小弁は虫の息に思われた。

 「彦八郎、美稲を頼む。
儂は梅之丞のもとに行く。
 彦七郎、来い」

 「はっ!」

 仙千代の胸中に怒りという赤い炎が燃えていた。


 


 



 
 

 
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