第398話 御狂い(5)名乗り

文字数 1,411文字

 信長は報せも無しに仙千代の帰還が遅れたことに
叱責を加えるべきだと思いつつ、
昨夜、就寝前になり、
無事に帰ったらしいと報告を受け安堵すると同時、
あの仙千代が訳もなく遅参するとは思われず、
さて何事かと思っていたら今朝、御狂いの場で、
確か仙千代が故郷の村で着ていた浅黄色の小袖の童を見留め、
その美童がこれもまた素朴な風体の少年二人と居るのに気付き、
それこそが遅れて帰った理由なのだと見当をつけ、
もとより仙千代を叱ることに気が進まなかったこともあり、
まずは御狂いに集中することにした。

 信忠は元服を終え既に織田家当主の座にあるとはいえ、
未だ十八の若者であり、
御狂いは騎馬よりも徒歩組参加を望む者が多いことから、
主催側としての立場から客人に逃げ役は譲り、
馬に乗っての参戦となった。

 とはいえいざ競技が始まれば上下も老若も関係なく、
ただひたすらに逃げる者は逃げ、追う者は追い、
捕まったり倒れたり、扮装が解けたりしたなら、
参加者は無論、見物人達も笑いが弾け、
猛々しくも愉快極まり、非日常の戯れを堪能した。

 彦七郎、彦八郎は小姓時代には騎馬で参加し、
眼を瞠る成績を収めたが今では妻帯者であったので、
出場者の世話に回り、
城での催事に不案内な銀吾、祥吉を助け、指示をしていた。

 仙千代も馬に乗り、参戦していた。
 落馬した前回、何の結果も残せず、
捲土重来か、逸る気持ちを抑えられないようだった。
 実戦は矢雨が降り、銃弾が飛ぶ命懸けだが、
遊びであるだけに何がどうしようが面白く、
ただ興奮の極みになる。
 途中、信長は仙千代の馬に追い立てられたが、
馬上の主は追う背が信長だと気付かぬ程に
無我夢中となっていた。

 逃げる側だけでなく、若年組も、
馬から落ちて痛い目に遭い、失格する者、
耳目を集める成果を出す者、様々だった。
 この日、勝ったのは小姓達で、
最も大きな声をあげ、熊か猪かという発奮を見せたのは、
他でもない、新顔の二人だった。
 信忠は家督を継いだ織田軍総大将として、
まさか遊戯で負傷するわけにはゆかぬと思ったか、
手柄を配下に譲り、自重した働きぶりで、
指令役に甘んじていた。
 仙千代は励んで二枚の布を手にした。
奪った一人は信長の馬廻り出身の猛将 団忠正、
もう一人は信長気に入りの力士 大銀山(だいぎんざん)だったので、
二枚とはいえ、仙千代はいかにも溜飲を下げたという顏をしていた。

 競技最中は出場者、見物人、皆が皆、
笑いに満ちた大騒ぎで細かなことは何が何やら、
誰が誰やら判然としない。
 信長の襟から布を引き剝がしたのは
仙千代が連れてきたらしい若童で、
終了後、全員が頬かむりを解き、
そこで初めて、

 「名も知れぬ童。
何と上様を射止めるとは」

 と審判を務めた堀秀政が呆れ半ばで童に言った。
 
 「名乗れ」

 と信長が命じると、

 「高橋虎松と申します!」

 「うむ!
その良う通る声で儂を追い詰め、(ふだ)を奪いよった。
 最後一名、勝ち残りになるはずがしてやられた。
 虎松。名も顔も覚えたぞ」

 「小木江にて、永久(とこしえ)の旅に同道させて頂くべく、
父は信興(のぶおき)公を追い、発ちました。
 弟、藤丸も参じております!」

 藤丸も一歩、進み出、虎松の後ろに控えた。

 信長の視界は揺らいだ。
 
 信興の家来衆の遺児、
それが虎松、藤丸……
 
 「仙千代!」

 「はっ!」

 真に於いて慎ましやかな仙千代は、
華やかな活躍を見せた高橋兄弟の後見のような立場でありつつも、
人の群れの奥に居て、
呼ばれてようやく前に出た。



 


 





 


 

 

 
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