第188話 妙顕寺(3)松風

文字数 644文字

 「削ぎ落すだけ削ぎ落とし、
人の思いの核とも言うべきものを残し、
尚且つ儚く、実相は幽玄の向こう……
良いものは良いですなあ。
足利義満公が世阿弥を見出し、
前例をみぬ寵愛ぶりに公家達の批判が集まったというが、
公の琴線を世阿弥は震わせたのですな……
儂のような無骨者でも景色が曇る……」

 信定は声が涙で濡れていた。

 「はい……」
 
 仙千代も、
ぐいと目をこすり、鼻をすすった。

 摂家、清華家、信長という貴人達を前にして、
『源氏物語』や『古今和歌集』といった
王朝文学を題材とした悲恋の物語、
『松風』が披露されていた。
 旅の僧は浜の松が海辺の村の姉妹、
松風、村雨の旧跡であったことを里の男から知る。
 須磨に流された貴公子、
在原行平(ありわらのゆきひら)と姉妹は恋情を結ぶが、
一途な思いも身分の違いの前に結ばれることはなく、
霊となった姉妹は叶わなかった恋と行平を偲び、舞う。
 序の舞、中の舞と続き、
最後、破の舞となって太鼓の音が鳴り響き、
夜明けと共に霊は去っていった。

 「恋慕の情は消えず、
魂となって彷徨っている。
しかし、聴聞したのが僧であったということが、
一段と哀れに思われ、
また、ひとしおじゃ……。
あの世では貴賤も敵味方もない。
懐かしい人々が思い出される……
しみじみと……」

 寺に暮らし、後には戦場に出て、
多くの死に接した信定だった。
 今、その筆は止まったままだった。
 信定の何分の一にも満たない齢の仙千代も、
親しい者達の絶命を幾度も見ていた。
 松風、村雨の舞に流した涙は、
ひと時、不思議にも、ふと胸に清浄な風を吹かせた。

 
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