第402話 小弁の願い

文字数 987文字

 秀政の詰問にただじっと身を固めているばかりの小弁で、
何があったのか、何を言われたか、
一切、口をつぐんだ。

 「言いたくなければ良い。
およそ想像はつく。
 が、ここに居る限り、
これからも心無い言葉を投げられるやもしれぬ。
 いや、ここに居らぬでも、
同じ目に遭うじゃろう。
 哀れ、気の毒と慰めるのは易い。
 しかし克服していくのは小弁、己なのだぞ。
万見様も誰も、それは救ってやれぬ。
ただ精進し、
誰にも後ろ指を指されぬ山口小弁になる他、
道はない」

 言い聞かせる秀政に小弁が、

 「その万見様なのじゃ、仙様なのじゃ、
儂が居っては恩義ある仙様にまで迷惑が……」

 と叫び、瞳に溢れた涙は一気にこぼれた。

 「居って良いところじゃないけ、
儂のような分際が。
 それが良う分かったで……」

 「儂がいったい何なのだ?
小弁、申せ、命令じゃ」

 仙千代は強く命じた。
 小弁は仔細を語ろうとせず、
尚も身を強張らせていた。

 小弁は誰が何を言ったのか語ろうとしない。
 仙千代はおよそ、想像はついた。
 信長側近としての仙千代は、
一部の者から妬み、嫉みを受けていた。
 内務、政務、外務にと八面六臂で努めても、
華やかな閨閥、栄えある武功ひとつ、目下は皆無で、
ただ、信長の寵愛のみが後ろ盾のようにも映る。
 そこに、嫉妬が生まれた。
 
 小弁は涙を拭おうともせず、

 「仙様の御一家に受けた恩、忘れられん。
良うしてくださった。
 人扱いされた……生まれて初めて。
人というものの温かさも知った……幸せじゃった」

 と仙千代のお下がりの古い小袖の襟を
ぎゅっと両の手で包んだ。

 「この着物……貰って良いかの?
置いて出ていくもんだと分かっておった。
 分かっておったがこれと手拭いは宝物じゃけ、
置いてはゆかれんかった。
 この着物、手拭い……貰って良いかの」

 手拭いは岐阜へ発つ時に、
病み上がりの小弁が冷えぬよう、
万見の女子(おなご)達が首に巻いてやったものだった。

 「手拭い。二本も。
これ、温かいんじゃ。
 ほんに温かいんじゃ……」

 仙千代は視界が揺らいで曇った。
 しかし、鬼の心で、

 「馬鹿者。
ここへ来たからにはせいぜい働き、
自ら稼いだ給金で着物も何も手に入れるのだ。
 木登りだ、相撲だ、凧揚げだと儂が散々着古して、
養母上(ははうえ)が苦労を重ねて継ぎに継ぎを施した左様な着物、
後生大事にしておるでない。
 山口小弁。
上様直々の御指図により、今も探しておったのだぞ」


 
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