第278話 祝賀の日々(8)郷愁⑤

文字数 704文字

 「あの家は左様な家か、
未熟者であった儂が平手の息子の馬を所望した際、
その男、五郎は、
自分は武士であり、
親しんだ馬を手離すわけにはまいりません、
人馬は一体、
なればこそ戦働きができるのだと言い張り、
渡さなかった。
 儂は勘気を起こし五郎を遠ざけた。
その冬、五郎は流行り病で没した。
 不孝は数知れん、儂は政秀に……」

 信長の一声に誰もが従い、
畏怖して恐れ、身を縮める。
 心を許した相手にのみ見せる信長の姿は、
何処にもいるただ一個の人だった。

 政秀を弔う為、信長は格式高い寺を建立し、
その子や孫もあまねく重用されている。
 徳川と武田が激突し、
家康が壊滅的大敗を喫した三方ヶ原では
佐久間信盛を総大将とする援軍で、
政秀の嫡孫、汎秀(ひろひで)が討死し、
戦死を知った信長は早々の退戦を決め込んだ信盛に、

 「汎秀を返せ!」

 と怒り、悲しみを隠さなかった。

 「十九才の汎秀は誇り高い猪武者であった。
大将として布陣したにもかかわらず、
情報が錯綜する中で徳川は、
汎秀への挨拶を最も後回しにした。
 武人として面目を失ったとして汎秀は、
自分は一兵に過ぎぬから明日は討死するのだと言い、
挨拶を受けようとしなかった。
 翌日、大敗を予見した信盛が全軍を連れ、
撤退しようとも汎秀は下がらず、
自らの言葉に従って敵陣へ突進し、討ち死んだ。
 平手の家はそんな男ばかりだ。
汎秀も政秀の血か、音曲に長け、
茶の道に秀で、風流が身についていた。
 だが、死にざまは左様なことだ。
 あの家の男達は、まったく……」

 信長の快活が失せたところで、
湿り気を裂くようにキィッ、ピイッと、
何やら鳴き声がして、
やがてそれは鹿だと知った。

 「上様、鹿が」

 「うむ」



 



 


 

 

 


 

 

 



 

 

 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み