第207話 大柿

文字数 1,157文字

 水の街、大柿だけはあり、
大小河川、湖沼、輪中と、
水辺の眺めに事欠くことはなく、
馬上の信長の向こうに水面が陽を反射して、
揺らめいていた。

 「感嘆したは入道の胆力(たんりょく)よ。
この(たいら)信長によくぞまた、牛若伝説を」

 「稲葉様の心胆を楽しんでおられたのですか」

 「ごく幼き身で父と五人の兄を一時(いちどき)に喪った入道だ、
正室が公家の娘ということもあり風流、雅に通じる中、
猿楽を一家で嗜み、
結束に生かしておるのであろう、
それを責める了見を儂は持たぬ。
今日この日、『鞍馬天狗』となったのも、
稲葉家男児の披露目であろう、
あれほど仰山居るのでは『鞍馬』が妥当。
孫自慢、あやかりたいものだ」

 信長は(ばん)直政こと大和守護の原田直政の妹との間に
信忠より先に生まれた庶子が居て、
その男児を村井貞勝に養子で出しており、
昨年五月そこで初孫が誕生したが、
信忠が嫡流とされている為、
赤児はあくまで貞勝の系譜となっていた。

 仙千代は白状した。

 「御目が御腰物に留まった時は、
内心、震えたのでございます。
もしや御刀を、もしやもしやと」

 信長は馬を止め、カッカと笑った。

 「濃の異母妹(いもうと)の嫁ぎ先ぞ。
趣向が気に入らぬといって斬って捨てれば、
それこそ厄介。
稲葉家を筆頭に美濃衆は厚い。
美濃衆の支えあっての岐阜の国。
そして美濃衆は、
岐阜の御台所(みだいどころ)が斎藤家の姫、
つまり濃であればこそ、
尾張の信長への臣従に抵抗が薄い。
我が岐阜も様々に絡み合っての安泰だ」

 敢えてか、懇切な言い様の信長に、
仙千代は今更ながらハッとした。

 そうだ、
上様が安土へ御移りになられるということは、
岐阜の御城が若殿の御城となるということだ、
若殿の世を見据えられ、
上様は支えをいっそう強固になさろうと、
美濃衆に御目をかけておられるのだ、
故に今日も楚根に足を運ばれて……

 一鉄の饗応に対し信長は、
(はな)から名刀の下賜を決めていたと仙千代は知った。

 岐阜の国が若殿のものになる……
若殿が岐阜城主に……

 安土に信長が行くのなら、
仙千代も従うことは自明の理であり、
信忠は信忠で、
岩村城を落としたならば更なる飛躍が待っている。

 蹴鞠見たさに鼻の孔を膨らませ、
猿楽に接すれば没入して泣き、
新たな御城というと夢想して、
儂は浮ついていた……
 上様は蹴鞠も八番興行も『鞍馬』も、
すべて責務の一端……
 若殿とて、
過酷な作戦の指揮を執られる日々……
 甘ったれのお調子者じゃ、この儂は!……

 一鉄の前では、
ゆったり鷹揚に構えてみせていた信長が、

 「急ぐぞ!
道草を馬に食わせておっては夜の(とばり)が下りる」

 と、馬脚を速めた。

 京から岐阜への帰路、
迂回して楚根城で一鉄の饗応を受け、
一家の代表として九歳の彦六に刀を授けた信長は、
何も物見遊山で立ち寄ったのではなかった。

 仙千代は自分もまた小天狗の一人なのだと思った。
大天狗は、もちろん、信長だった。


 

 






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