第187話 妙顕寺(2)能 八番興行②

文字数 924文字

 信定は、

 「能……若殿がたいそうお好きで、
造詣が深くていらっしゃる。
弟君達も。
御三人が舞われた御姿を拝見する機会が以前あって、
若君達の厳かなる佇まいには、
思わず背がしゃんとしたものじゃ。
皆様が今日この場に居られたら、
たいそうお喜びになられたであろう。
それを思えば此度の随行はつくづく勿体なく、
有り難いばかり」

 と言いつつ、
忙しく走らせていた筆を一瞬休め、遠い目をした。
 その先は信忠が布陣する東濃(とうのう)岩村、
信雄(のぶかつ)、信孝が攻略の為、
養子に出ている伊勢を向いているに違いなかった。

 実際、信長は、
儀礼で能興行に出向いたのであり、

 「出羽介(でわのすけ)を名代で出したいほどだ。
岩村を取り戻し、
奥美濃から武田を一掃すれば若殿は一段と位を上げ、
斯様な顔触れの場にも単独での列席が適うこととなる。
問題は今日この日だ。
八番は長いのう」

 と信忠の名を出し、
始まる前から一日を飽きてみせた。

 今回の上洛も毎度の恒例で、
天下の政務を行う必要があってのことだったが、
(まつりごと)のみならず、
蹴鞠会、能興行があるかと思えば、
奥三河での織田・徳川連合軍の戦勝を祝おうと
貴族、大名、豪商らが、
ひっきりなしにやって来て、
しかも信長は、
近江 瀬田川に長大堅固な未曽有の大橋を架けようと計画し、
ようやく基礎が成り、
立柱式(りっちゅうしき)を行う運びとなったので、
式典に一日を費やすことになっていて、
日々、社交や儀式に忙しかった。

 仙千代も取次、書状管理、副状(そえじょう)の作成、
交渉、使者と慌ただしい日々を送った。

 なれど、ここは戦渦に遠い……
叔母君の御城を囲み、
初の総大将戦の若殿、如何なさっておいでか……
 また、菅谷殿、堀殿、
そして竹丸、三郎、勝丸……
 皆、どうしているのか……

 折に触れ連絡を密に取り合っているとはいえ、
信忠軍が水晶山に陣取って、
季節は梅雨から夏へと変化していた。
 秋となり、冬に入れば山深い奥美濃は寒さが殊更だった。
 仙千代は信忠軍の勝利、
一日でも早い決着、一人でも少ない戦死を願った。

 爽やかな夏の妙顕寺、猿楽の演目は、
仙千代にも分かる、
人の生死、(たましい)を題材にしたものがあった。
 すると、いつしか引き込まれ、
細かなことは識らずとも涙で頬が濡れていた。

 ふと我に返って隣を見ると、
信定も筆を止め、
目を(しばた)かせていた。
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