第28話 龍城から熱田へ①

文字数 1,036文字

 信長が語り掛けた。

 「九十郎や。
今日は顔を見られて嬉しかった。
また会おうぞ。次は岐阜の城でな」

 「はい。有り難う存じます」

 小さな身体が平伏すると、
忠次も同様にした。

 岐阜城下には、
各国の大名や武将の係累達が集まって暮らす、
貴人村とでも呼ぶべき町があった。
 言い換えれば、それら者達は人質なのだが、
皆が皆、礼を尽くして遇されていた。
 ただ、今回の酒井忠次(ただつぐ)の子のような、
長年の同盟相手の高位の縁戚がやって来るのは、
初のことだった。

 仙千代ならば上手くやるだろう、
九十郎を任せても、
仙千代ならば心配がない……

 心身共に未熟に過ぎる仙千代が戦地に出向かず、
岐阜で留守居組であった時、
信忠の異母弟(おとうと)達の世話をして、
慕われているようであったのを、
信長は覚えていた。

 岡崎を出立後、
今夜の宿泊地、
熱田へ向かう道中も仙千代には、

 「あのような仰り様をされるとは。
私は気短ではありませぬ」

 と、しばらくの間、
むくれ面を向けられた信長だった。

 「いつまで根に持つのだ。
あんがい執念深い」

 馬上で会話を交わしつつ、
そろそろ境川が近付いてきた。
 これを超えれば尾張に入る。

 「何より九十郎殿が気の毒でした。
幼児(おさなご)は真に受けるものでございます」

 「ま……確かにな」

 「何か思い当たられることが?」

 十九歳で父 信秀が病没し、
若くして家督を継いだ信長は、
家中に弟を推す勢力を抱え、
尾張統一に苦しんだ上、
武田、今川という強敵に囲まれていた。

 思えば、信忠、信雄(のぶかつ)に濃やかに接した記憶は無く、
御徳(ごとく)に至っては八歳で嫁に出している。
 今、岐阜で共に住んでいる息子、娘達には、
父親らしい目を向ける余裕もできたが、
五男の御坊丸は幼くして岩村城へ養子に入れて、
一年前には敵方 武田の手に落ちていた。

 とはいえだ……
家が滅びては何にもならぬ……
誰もが生まれ落ちた場で、
懸命に生きるしか道はない……
甘い顔をして済むならいいだろう、
済まぬのがこの乱世……

 「勘九郎や三介には厳しいだけの父だった。
あれらに儂はどう映っていたか。
ふと思ってみたまでじゃ」

 信長の九十郎の前での振舞で、
先程まで冗談とも思われず不服そうにしていた仙千代が、
今は平素に戻り、穏やかな調子で返した。

 「上様が御二人を頼もしく思い、加えて、
若君様全員の先々を楽しみにしておられることは、
若輩の我が身にも十分伝わりまする」

 胸中の棘を仙千代の穏やかな声が包んで癒した。

 西に移り行く陽の光が眩く、汗ばんだ信長に、
仙千代が小者に命じ、竹筒の水を渡した。

 


 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み