第96話 多聞山城(6)花の影②

文字数 1,008文字

 仙千代の記憶の倉が開かれて、
いつしか誰かから知った逸話が浮かんだ。

 十六年前、
ようやく尾張統一が成った信長は、
初上洛で征夷大将軍 足利義輝に拝謁した際、
二十五という若さの故、
供回りもほとんど若者ばかりで、
ここがハレの舞台とばかり、
自身も御供衆も装いを凝らして着飾って、
傾奇者そうろうという集団だった。
 真意といえば、
花の京で猛々しい振舞はすまじという意志の表れで、
信長は手勢、わずか八十名、
軍備を解いての入京だった。
 今度はどのような蛮族が京を蹂躙しにやって来たかと
不安を抱いていた人々は、
信長一行の華やかな様を面白がった。
 
 しかしその陰では美濃の斎藤義龍が、
三十名の信長暗殺部隊を京へ派遣していた。
 これらと三条で出食わした信長は、
衆人を前に、

 「若輩の分際でこの命を狙うとは、
蟷螂(かまきり)が勝てもせぬのに鎌を振り上げておるのと同じだ!
討ち手は誰だ!
やれるものならやってみよ!
出来はしないだろう!」

 と得意の大音声(だいおんじょう)を発した。

 はたして美濃の刺客は進退窮まり、逃げ去った。
 
 京人(みやこびと)の中には、

 「尾張では、ああした物言いをするのか」

 と眉を(ひそ)める者が居れば、

 「流石、若大将は威勢がありますなあ」

 という人も居て、
信長が京の人々に強い印象を与えたことは、
間違いなかった。

 信長は、やがて、
兄を誅殺され、将軍職に就いたものの、
いわば何処にも引き取り手のない状態であった
足利義昭を岐阜に迎えて支援し、
二ヶ月後には諸情勢を整えた上、
義昭を奉じて、九年ぶりに京に上がった。
 この時の信長は一段と深慮をもって行動し、
慎ましく振る舞い、
一方で、
京の治安の復活と内裏の修理、
将軍御所の建設、
朝廷と公家の暮らしの救済策を献じ、
直ちに取り掛かった。

 このように信長は過去、
京でも大和でも、慎重な振舞に徹し、
二つの京の安定に常に努めた。

 最近、薬を切らしていたという巻介は、
癖であるのか、
胃の腑のあたりを(さす)った。
 細心な(たち)であるだけに、
もしかして大和に来て以降、
胃弱をいっそう強めているのかもしれなかった。

 先月の志多羅の戦でも顔を合わせていた二人だったが、
武田家との合戦中、
このような話をする(いとま)は無かった。
 
 「九条卿は古典に造詣の深い教養人にして、
粗末な暮らしも厭わぬ気骨のある人物だとして、
帝は信を寄せておられる。
故に蘭奢待を下賜されたのであろう。
だが、九条卿の背景を知れば、
それだけではないとも察せられる」

 巻介の声は一段と低まった。
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