第348話 尾関邸(5)白雪

文字数 666文字

 「あと一度、あの歌が聴きたいものだ」

 ……信忠の一言、そして境遇が仙千代を揺らがせる。
 心を許し合い、
一文字一文字に思いを込めて手紙(ふみ)を交わした松姫。
 その兄と戦い、滅亡へと追い込む身。
 幼い日々の思い出が今も色濃い大叔母を死に追いやり、
自身は家督を継いで殿上人となる。
 若い信忠の孤独、苦悩を清らかな童の歌声が癒し、
安らげた。
 
 殿の御気持に応えられぬ三郎とて、
けして辛くなくはない……
 この儂さえも、
殿の御傍に小弁が居たならと叶わぬ夢を描くのだから……

 三郎との酒は無言で進み、
やがて仙千代は尾関邸を出た。
 伴としてやって来ていた近藤源吾重勝に、
仙千代が、

 「すべて聴いておったであろう」

 と水を向けると重勝は、

 「領主ともなれば万事如意、
何事も思うがままかと想像しておりました。
 心惹かれた謡曲ひとつ聴くことも叶わぬとは。
 一国の主、成るものではございませぬな。
源吾が大名など有り得ませぬゆえ、
心配無用でございまするが」

 と敢えての呑気か長閑な口調で返した。

 「分からぬぞ。
名門今川が滅亡し、強大な武田が青色吐息。
 いずれ、日ノ本の何処ぞに、
近藤藩が成立するやもしれぬ」

 「近藤藩。
何やら耳に心地良いような。
 確かに悪い気は致しませぬ。
藩主、近藤重勝。
 ふうむ、なかなかの響きでござる」

 「こら!御調子も大概にせよ。
万見藩が先じゃ」

 二人は笑い合った。
 だが仙千代の胸中は波立ったまま収まらなかった。
 いつしか伊吹おろしが
岐阜の城下に綿毛のような雪を運び、
御殿の(いらか)を夜陰に白く浮かび上がらせていた。
 

 
 

 


 

 
 


 

 
 
 
 

 

 
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