第181話 信定の回顧(1)小牧城

文字数 1,263文字

 やがて一呼吸つくのか、
信定も外へ出てきた。

 「筆も墨も帳面も、
上様に取られてしもうた」

 やれやれだという風な顏を作りつつも、
信定の人心地ついた安堵が伝わった。

 「上様と殿の御関係とはいえ、
上様たっての御推挙で賜る位を固辞されるとは、
もしや上様の御機嫌を損ねはせぬかと
心の臓が波打っておった。
くれると仰せのものを要らぬと言うなど、
まあ、あの殿以外、よもや居られぬ」

 それ程に信長が長秀に寄せる思いは特別で、
長秀もまたよく応え、
だからこそ、官位を授かるにふさわしいのか、
いや、そうではないと心からの謙遜を見せたに違いなかった。

 「上様は丹羽様、
いえ、惟住(これずみ)様の御性分を見通した上、
辞退されるような場合を前以て想定し、
話を進められたのですね」

 「儂が思い出したのは小牧の城じゃ」

 信長は尾張の西の勝幡(しょばた)城に生まれた。
先々代、先代と、経済力の獲得に務め、
成功した勝幡織田家は支配地を東へ進め、
父の信秀は、
自身が築いて居城とした古渡(ふるわたり)城にごく近い那古野城を
元服前の信長に与え、城主として住まわせた。
 信秀没後、信長は尾張統一を果たし、
代々、尾張守護 斯波氏の城であった清洲城に入った。

 「桶狭間での勝利、徳川様との同盟を経て、
東方に対する憂慮が減じ、
御関心が北へ西へと向かわれるにつれ上様は、
尾張中央の独立山、小牧山に城を築こうと考えられた。
御城を北方へ移す計画は家中に広まり、
多くの者が不満を抱いた。
守護の座所であった清須は格式が高い。
ようよう手にした清須を何故出るのかと」

 他の大名には見られぬことながら、
信長は父、信秀がそうであったように、
支配地の拡大に伴って次々と居城を変えた。
 信秀も、勝幡(しょばた)城、古渡(ふるわたり)城、
末森(すえもり)城と座所を変え、移り住んでいる。
 信長は信秀をよく倣っていた。

 「艱難の末、手にした清須を出るとはと、
家中に不満が鬱積する中、
上様は一計を案じ、
何と犬山本宮山に城を築くと布告なさった。
万仙殿も存じておられよう、
本宮山は尾張大富士とも呼ばれる高所。
難工事を予想してまさに反対一色となった。
そこで上様は、
家中で十分に意見が出尽くした後、
なれば、小牧山に築城しようと仰せになった。
もう反対意見は出なかった。
本宮山に比べれば、
小牧山は清須に近く、標高も低い。
上様は本懐を遂げられたのだ」

 「段階を踏まえ、
本命、小牧の築城を達成された……」

 「万事、断行の御意志の固い上様は、
なればこそ、
熟慮の御人(おひと)でもあらせられるということだ。
小牧山では、二十歳代であった我が殿が、
何とそこでも総奉行として普請を担われた」

 「それは初耳でございます」

 「佐久間殿、柴田殿、今は亡き森殿、
他にも数多の居並ぶ重臣方を差し置いて、
我が殿が抜擢された。
しかしそれとて、上様の深謀遠慮。
若い丹羽五郎左が総奉行とは何たることか、
我らも負けてはおられぬと誰もがしのぎを削って、
城を造った。
道が真っ直ぐに大手門から天守へ続く斬新な城じゃ。
上様と殿の若い感性なればこそという小牧の御城」

 信長、長秀、
そして自身の青雲時代を懐かしむかのように、
信定の眼は遠くを見ていた。





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