第299話 女城主(6)六大夫⑤

文字数 1,536文字

 東濃では、
水晶山に夜討ちをかけたものの、
追い払われた上、城へ逃げ帰れなかった敵勢が、
ある者は勝頼に合流せんと試み、
ある者は武田に(くみ)する遠山諸将を頼り、
一帯の山や原へ逃げ散った。
 信忠はそれらの探索を命じ、
甲斐・信濃の大将格二十一人、
屈強の武士千百余りを捕縛、討ち取らせ、
敗戦を予期して岩村に背を向けた勝頼に、
痛烈な打撃を与えた。

 信玄の命により岩村を攻め、
城を落とした秋山虎繫が籠城の憂目に遭っているといえば、
三河で惨敗を喫して間もない勝頼なれど、
救援に向かわねば配下を見殺しにしたと言われ、
かといって結果に目を向ければ新たな敗北を重ね、
無理矢理集めた農兵達をも失い、
それに伴って、帰国すれば村々の荒廃が待っているのは確実で、
まさに進むも地獄、戻るも地獄という有様だった。

 河尻秀隆のみならず重鎮、古豪の諸将は見事な働きを見せ、
長可(ながよし)、池田元助ら、
譜代の若い武将も競い合って功をあげ、
総大将戦は初の信忠を一同(こぞ)ってよく助け、
勝利へと導いた。
 信忠は経験の浅さを知っており、
いつになれば帰国の途につけるか判然とせぬまま、
三万もの軍勢を統率することは、
実際、少なからぬ困難を伴い、
何もかも放り出したくなることがないではなかった。
 しかし未熟な己であろうとも、
仰ぎ見られる身であれば表情ひとつ気を使い、
威厳を保たねばならず、
弱音を吐きたく思っても一切飲み込み、
言動を厳しく律した。

 過酷な包囲戦を長きにわたって耐えた軍勢に、
織田家の正当な後継者たる存在を示すには、
重要な一戦で鮮やかな成果を上げることは必須であって、
勝頼が信玄を越える戦績を収めんが為、
無謀にも映る積極策を取り続けたことも、
心情として分からぬではなかった。
 尾張の一奉行家をここまでにしたあの父の子として、
信忠とて安穏と、
陣に座しているわけにはゆかなかった。
 野戦、分けても城攻めは危険が大きいとして、
出陣、まして先陣には及ばずという忠言は確かにあった。
 だが、ここまで長期の戦いで兵卒、諸将が疲弊する中、
自らが先頭に立って戦う、
それこそが将兵の労苦に報いる唯一の道だとして、
信忠に迷いはなかった。

 やがて勝鬨(かちどき)が上がり、
三郎、勝丸、馬廻り衆の血飛沫を浴びた姿に信忠は、
興奮と喜悦の後、直ちに安堵に襲われて、
何とも言えぬ放心、脱力に包まれ、
その解放感は至福と言って良いものだった。
 勝利は確かに喜びだった。
 それ以上に、
己とかけがえのない者達の命が永らえたことを認めると、
大きく深い、かつて知らぬ安らぎがあった。

 信忠の思う父は、
喜怒哀楽がそのまま人の形になったような男で、
生き抜く上で権謀術策を巡らせざるをえない人生行路を歩んできたが、
真の真では純が極まる人物で、
喜びも怒りも悲しみも楽しさも全身全霊で感受し、
その天分、努力と並び、
気性の激しさに人は圧倒され、畏敬を抱いた。
 残酷、残忍という(そし)りは、
乱世の覇道を突き進む者にとっては当然の称号で、
これを苦にしていたらどの武将とて、
一日とて生きてはいない。

 勝鬨に包まれながら信忠は、
織田家代々の男達が、
また、あの父が辿った最初の一歩を、
ようやく自分は踏み出したのだ、
そこに立つことを初めて許されたのだと自戒した。

 「えいえい、おーっ!」

 「えいえい、おおーっ!」

 岩村城の燃える櫓は、
若大将信忠の行く道を照らしているかのようだった。
 これ以上はない後詰の援助を受けながら、
万一にも敗北を喫しようものなら恥であるとして、
自決を覚悟の信忠だった。
 主の刀を汚してはならぬという決意であるのか、
奮迅の限りを見せた三郎、勝丸が、
信忠を見上げていた。
 泣いているのか、笑っているのか、
互いがまったく分からなかった。
 ただ、安堵、感謝がひたすらに信忠の心を絞った。

 




 


 





 
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