第410話 安土へ(1)新春

文字数 1,166文字

 天正四年に入り、安土へ移る日が間近となった。
 尾張、美濃の二国は信忠が継ぎ、
夥しい名宝の数々も譲られた。
 かくなる上は信長の近侍のみならず、
信忠の側近、小姓も大忙しで、
誰もがいつにも増して慌ただしい日々を送った。
 そのような折、虎松、藤丸は飲み込みが早く、
何事にも積極性を見せ、よく役に立つというので、
評判が芳しかった。
 神出鬼没に姿を見せては気儘に振る舞い、
如何にも悪童かと思いきや、
我流とはいえ武術はなかなかのもの、
叔父なる人の薫陶か、
年相応の読み書き、算術は困らぬどころか生来の頭の良さを見せ、
同輩を追い抜く程の筋だった。
 また馬の扱いは厩舎番にも一人前の太鼓判を押され、
その点は特段他の小姓を圧倒していた。
 信長が洩らしたように見目もけして悪くなく、
田舎の童姿から小姓装束に着替えた二人は見違えて、
それが御狂いで雄叫びをあげていた虎松、藤丸だと知ると、

 「何と。馬子にも衣裳」

 「化ければ化けるもの」

 と感嘆された。

 小弁は小弁で、
武家の下働きである小者(こもの)のそのまた手下のような分際ながら、
隙をみては筆を取り、先ずは仮名の習得に努め、
朝には日々、佐々(さっさ)清蔵の稽古に加わり、
厳しさでならす清蔵の鍛錬に耐え、
指は血豆、身体もあちこち痣を作りながら、
時に行き会うと幾らかたどたどしいものの武家言葉で挨拶をして、
仙千代の頬を緩ませた。

 「小弁。
小者の勤め、少しは慣れたか」

 小者は下男仕事を担い百姓出身者が多かった。
 とはいえ武家に身を置くからには合戦に伴われ、
戦場では武将を助け、武具、馬の運搬、管理を行うことから、
当人も武の嗜みは必須であって、
優れた小者は足軽に取り立てられ、
やがて武士となる道もないではなかった。
 その道程で頭角を現し城主にまでなったのが羽柴秀吉で、
秀吉の才を高く買った信長が
武家の娘である於寧(おね)との仲立ちをして、
秀吉に身分、苗字を与えた。

 「名誉の負傷か。頬に傷が」

 仙千代が見留めたのは小弁の右頬の擦り傷だった。

 「流石、武辺で鳴らす佐々家の朝稽古。
聞きしに勝るということか」

 佐々清蔵は北陸平定に打ち込む柴田勝家の与力、
佐々成政の甥にあたり叔父譲りの武闘派だった。
 成政は若き信長の親衛隊長を務め、
織田家中有数の武人として名を馳せていた。
 一貫し、名も血筋も問わず、武勇の士の召し抱えに熱心で、
約束の知行以上に払うこともある人物であり、
成政のもとには諸国から腕に覚えの猛者が集まった。
 そうした気風は清蔵も似て竹を割ったような性分ながら、
それ故に稽古であろうと本戦の気構えでなくてはならぬという案配で、
武辺を聞き付け稽古に参じた何人もが()をあげ、
早々に離脱するということも少なくなかった。

 「佐々殿、よほど容赦ないと見える」

 仙千代の言葉に小弁が照れ笑いをした。
 その笑顔が今の暮らしの充実を物語っていた。

 
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