第387話 母の思い

文字数 1,275文字

 暫し、目線が重なった。
 その眼は皆と行きたいと訴えていた。
 それを断つように小弁は瞼を閉じた。

 「帰る……村へ……」

 最も有り得ないはずの答えを選んだ小弁に、

 「何を抜かす!」

 と怒声を飛ばしたのが虎松で、
藤丸も、

 「何故そんなことを言う、
万見様は岐阜へ連れていっても良いと仰せなのだぞ、
天下の織田様の御足元で働かせていただけるのだぞ」

 小弁は何か達観したように横たわっていた。

 「小弁、心にもないことを何で」

 「連れていっていただこう、
万見様はそのおつもりで仰ってくださったんじゃ、
分からんのか、それが」

 虎松、藤丸は仙千代の真意を酌んでいた。
縁あって救ったこの少年を、
再び泥沼へ堕とそうとは思えなかった。

 小弁が声を振り絞り、言った。

 「父親(てておや)が誰かも分からん子じゃけ。
一緒に居っては皆の迷惑になる……」

 誰も落涙を禁じ得なかった。
 ただ小弁だけ、静かに身を横たえていた。

 仙千代は悲涙を押し込め、告げた。

 「それを二度と口にしてはならん。
父親?知らんで良い!そんなもの」

 「そんなもの?」

 「そうじゃ、そんなものじゃ」

 「(てて)無し子、
売女(ばいた)の生んだ子と言われた。いつも」

 「いいや、小弁。
乳を飲ませ、凍えぬように抱き、
二本の脚で立つまで育ててくれたのは誰だ。
 お母さん(おっかさん)だ。
確かにお母さんは酒の毒にやられておった。
 が、そんな中でも懸命に育ててくれた。
故にその命、ここにあるのだ」

 「知らん、儂を売ったお母なんぞ、
知らん、知らん……」

 小弁の涙は一気に溢れた。

 「こうは考えられぬか?」

 今一度、仙千代の手は小弁の頬に触れた。
涙が指に絡んだ。

 「お母さんは病んでおった。
 酒はお母さんを乗っ取った。
それでも我が子の行く末を案じたのだ。
 ここに居ては食い詰める。
酒の毒にやられた身では、
いずれこの子は独り、路頭に迷う。
 村の他の童はどうじゃ。
貧しい村だ。
 既に死んだ者も居るだろう。
 たった一人の子を旅の一座に託した思い。
その背を見送るお母さんの悲しみ、苦しみ……
無かったなどとは決して思わぬ。
 子を手離す覚悟を決めた親の愛。
可笑しなもので、儂とてそうじゃ。
男子が多い家ゆえに、他家へ出された。
この万見家に。
 下の弟達も同じように。
幸い、万見の養父母、姉達のお陰で、
それこそ親や兄の情けであったと疑うことなくここに至った。
 情けがあれば人は陽を向き、育つのだ」

 小弁は唇を震わせていた。
 
 「そもそも小弁。
 訊いたことはあったのか。
 父は誰なのか」

 「……一度だけ。
お母、儂の親父は誰なんじゃ、
皆がおかしなことを言うんじゃ、
父無し子と。
 父無し子とはどういうことじゃ……。
 菜っ葉を刻んでおったお母が固まった。
振り返った後、怒鳴った。
 知らんでいい、
そんなこと、知らんでいい……」

 図らずも仙千代が投げた台詞と
小弁の母が同じ言葉をと知ると、
いよいよ小弁を手離してはならぬと思われ、
仙千代は、

 「疲れさせたな。
 済まなかった。
今はゆっくり休め。
 快癒して、気力を取り戻した時、
答えを決めれば良い」

 と小弁の首の葱を今一度、巻き直した。
 
 

 
 

 

 

 








 


 

 
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