第431話 第三部 了に寄せて(5)

文字数 826文字

 ……山口小弁②
 
 本能時の変、明智光秀討伐を経て、
世の趨勢は秀吉に傾いてゆきます。
 信長の死後、小牧・長久手の戦いで、
秀吉と家康は最初にして最後の直接対決をします。
 そこで大功をあげたのが家康の小姓出身にして、
徳川重臣に於いて最も秀才の誉れ高かった榊原康政。
 (20歳にしてようやく元服を許されたといわれ、
家康の康政への寵愛ぶりがうかがえます。
 因みに康政の後、寵愛を受けた井伊直政の元服は22。
男色の印象は薄い家康ですがいったん信頼すると、
なかなか手離さなかったんですね。
 それだけ二人が優れた資質の主だったという証左でしょうか。
 尚、康政59歳の死に殉じ、
康政の寵愛最も厚かった側近、南直道が康政病没の二日後、
割腹し、殉死しています)
 
 さて、康政36歳、小牧・長久手の戦いに戻ります。

 羽柴(のち豊臣)秀吉vs徳川家康。
 両軍は膠着状態。
 
 康政は兵を鼓舞せんと、

 「秀吉は卑しい生まれであるのに信長公に大恩を受けた。
なのに織田家簒奪を狙っている。
信長公に弓を引くとは不義悪逆の至りだ」
 
 と超のつく達筆で檄文を書き、高札をあちこちに立てます。
 
 当然のこと秀吉は激怒。
 秀吉の触れてはいけない部分を康政は突き、
秀吉は康政の首をあげた者には十万石を与えるという
触れを出したといいます。
 それほどの怒りだったのです。
 
 康政は秀吉の甥 秀次、
信長の乳兄弟 池田恒興とその嫡男 元助、
恒興の娘婿 森長可らを討ち、大手柄をたてます。
 
 やがて秀吉と家康は和睦。
 秀吉はその際、
何と徳川からの最初の使者に康政を指名。
 秀吉は自分を愚弄した康政を赦し、
今となっては大した勇気だと言い、
豊臣姓を与え、称えました。
 
 天下を手中にした秀吉。
 それでも出自は変えられず、
生涯「卑賎」という文字が付き纏い、
教養の向上に精一杯努め、関白にまで上り詰めようと、
世の成立ちの理不尽に心奥では腹立ち、
口惜しさが消えなかったと想像します。


 山口小弁③へ……

 

 
 


 
 

 

 
 
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