第264話 勝家の夢(9)市と勝家②

文字数 916文字

 勝家は真っ赤になって汗が止まらず、
手拭いがぐっしょりしていた。

 「御挨拶程度のみにて、
上様の御妹君と親しく言葉を交わすなど、
滅相もない。
 若君達が幼き頃、
御殿の庭で御戯れの際、
於犬様ら、姫君達が交っておられ、
一度二度、偶然居合わせ、
鬼の役目を仰せつかって、
鬼面をかぶり、皆様に追われたことが。
 左様な程度の御縁にて……」

 「うむ、まあ、で、あるな。
権六には鬼面が似合いじゃ。
図が思い浮かぶわ。
いや、面なぞ要らぬ、
その髭面なれば十分、子らには恐ろしい」

 信長の反応に秀政、仙千代以下、
何やら堪えているような風情があるようにも思われたが、
信長はそこは素通りし、
勝家主従の談から察するに、
父娘ほど歳の違う勝家を、
むしろ市が慕っていたということであり、
思慕の種類や深さはともあれ、
何にせよ慕われていたことに気付いた勝家が、
その後、思いを深めたとも受け取れた。

 むさ苦しい権六の何に惹かれたか、
あの市が……

 二人の交誼に(やま)しさが微塵もないことは、
信長にも確と知れる。
 が、慕情がいくら淡くとも、
歳の差、身分を鑑みたなら、
つくづく人の心は分からぬものだと信長は思い、
今の市が兄に夫の命を取られ、
時に昏い表情を見せると聞いていなければ、
今の今、越前へ市と三姫をやっても良いとさえ、
思われた。

 「さても、権六と市の縁はよう分かった。
権六の室は市だ。
市の終の棲家はこの越前だ。
二言はない。
証人はここに居る堀久太郎、万見仙千代である」

 証人という言葉に勝家、勝照は固まった。
 願いは叶えらることになったとはいえ、
今ではないということだった。
 越前の国主となりはしたものの、
加賀、能登と、火種は鎮まり切ってはおらず、
この後も戦場に身を晒す勝家にすれば、
今ではないということは、
永遠にも思われるのやもしれなかった。

 他者の心の動きに今ひとつ疎いと自認する信長ながら、
主従の落胆は想像に易く、

 権六の純、庄助の直情は、
けして嫌うものではない、
むしろ愉快にして好ましく、
また儂は鬼でも蛇でもありはせぬ、
権六を慰撫するに何を惜しむことがあろう……

 信長は仙千代に目を遣り、耳打ちすると、
仙千代は頷き、

 「いったん御無礼致します」

 と挨拶を残し、座所を出た。


 

 

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