第85話 水の精

文字数 1,381文字

 仙千代は岐阜へ帰還する旨、
信忠に言上し、挨拶を済ませると、
検使の務めを終えて岩村を離れた。

 岐阜まではおよそ二日を要する。
信忠軍に与力として配されている森長可(ながよし)の金山城下が
岐阜と岩村の中間にあることから、
岩村攻めで長可は不在ながら、
仙千代一行は金山の森家家臣の屋敷に一泊し、
翌日の夕刻、岐阜へ戻った。

 信長の信が厚い堀秀政が縄張りを決め、
仙千代邸と並び、
長谷川竹丸や池田勝九郎の住まいがあったが、
勝九郎は元服し、元助となって、
父である池田恒興が武田に奪われた明智城を押さえる役目で
御番手として入った小里(おり)城へ移り、
岐阜を離れた。

 夜分の帰還だったので、
信長への報告は明朝とすることにして、
食事と湯浴みを済ませると、
不在の間にたまっていた書状に目を通し、
やがて、床に就いた。

 水晶山の滝での邂逅以来、
夜、目を閉じると、信忠が鮮やかに浮かんだ。

 岐阜でも戦地でも信忠と仙千代は、
共に暮らしているようなものなのだから、
半裸の信忠を目にしたからと、
今更何でもないことのはずが、
突如そこに現れて、あろうことか、
転倒しそうになった腕をつかまれ、
身体が一瞬、密着し、
互いの息が混じり合うほど接近していた。

 若殿、水の精のようじゃった……

 信忠の姿を思うと直ぐには眠れず、
幾度も寝返りをうってしまう。

 信忠の背が信長を越えつつあることは、
もちろん気付いていたが、
抱かれていても圧迫はなく、
水の作用のせいなのか、
自然とすっと溶け込んで、
一体になってしまうかのような感覚を覚えた。

 元来、女顏である信忠の整った眉目に、
父譲りの高い鼻梁が雄々しい風情を醸し、
いかにも若武者らしい趣を与え、
竹丸から聞いた水の精というのは、
羽衣の女神でも悪戯っ子の童でもなく、
眼前のこの貴人の若者なのだと仙千代は脳裏に(よぎ)らせた。

 「初めて見ました。美濃の滝を」

 予想だにせず、信忠に触れられ、
出た言葉は、
仙千代が奥底にずっと秘めていた想いの発露で、
意思とは無関係に放たれてしまったものだった。

 何故あのようなことを……
何故そのように未練がましいことを……
若殿を困らせるだけなのに……
もしや、御不快にさせるだけなのに……

 信忠はそれには何も答えず、
突然現れた自分に非があると言って仙千代に詫び、
さっと行ってしまった。

 お優しい御方なのだ、
大きな御心の方なのだ、
無礼な物言いをした儂に御不興を示されることもなく、
何と謝ってくださり、出て行かれた……
若殿はつくづく、
心根の真っ直ぐな御方なのだ……

 本来、仙千代こそ、
立ち退くべき立場だった。
 それを信忠は、自ら去って、
仙千代に謝罪の言葉を残していった。

 胸の奥の小さな箱に押し込めて、
けして開けはしないと決めていた信忠への思いが、
仙千代を苦しく、甘く、悩ませた。

 いや、だからといって何になる……
若殿を思う気持ちが何になる……
しかも、あのようなことを言い、
またも若殿を困らせた……

 「たわけ!仙千代の大だわけ!
糞だわけ!」

 むくっと褥に起き上り、
髪をかきむしり、仙千代は闇に叫んだ。

 「いったい何処まで馬鹿者なのだ!」

 不寝番の警護が寝所の外から呼び掛けた。

 「殿!如何なされました!」

 呼吸を整え、仙千代は、

 「いや、何、夢見で寝惚けた。
何でもない」

 と言うと、
身の火照りを鎮めるように目をぎゅっと閉じ、
水の精の幻影を無理矢理に追い払った。

 

 




 

 


 


 



 

 

 
 
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