第282話 祝賀の日々(12)神鹿④

文字数 988文字

  「この一年間、
ただの一度も興福寺の鹿の為、
罰を受けた者は居ないとのこと、
塙殿の御小姓、野木巻介から知らされております」

 「巻介……ああ、末成(うらな)り瓢箪のような、
あの細っちょろい……」

 巻介は胃弱で確かに信長の言う通りの風体だった。
 しかし仙千代には親しき友であり、
ついムッとして、

 「末成りは末成りなりに必死に成って
命を繋いでおるのです、
獣より人が軽んじられる有様をお嘆きの上様なれば、
末成りの健気にもお気付きになられるものかと」

 と口を尖らすと、
目をカッと開いて驚いた上、
声に出して笑い、

 「仙のお気に入りか、巻介は」

 「百姓の出でありながら才覚に於いて目覚ましく、
また努力(たゆ)まぬ人柄で、
まこと、敬うべき友でございます」

 「うむ。そうか」

 口ごたえをした仙千代に不快を表すでもなく、
信長は機嫌の良いままで、

 「藤吉郎が好例じゃ、
草を枕に暮らした者が今では大名。
能ある者は世に出るべきで、
それが衆生の為になる」

 「はい」

 仙千代は笑顔となって鹿肉をまたも頬張った。
 
 「巻介は鹿を儂が捕えて以降の事後に気を配り、
処罰を受けた者は皆無であると調べておったか。
何の役に立つか分からぬことにも考えを巡らせ、
こうして儂の耳にも届く。
うむ、なかなかの者だ。
褒めてつかわす。
末成りも食って食えぬものでもないと知った」

 「また末成りなどと」

 ここで信長の表情は引き締まり、

 「鹿は捕縛して正解であった。
大和が織田家の支配である限り、
人が鹿の為に命を奪われるなどあってはならぬ。
また、そうはさせぬし、
そうも成らぬとこれで分かった」

 「して、この鹿は、
果たしてどちらの鹿なのですか」

 「神鹿とも否とも言える」

 信長が言うには、
村井貞勝の預かっていた鹿が野犬に襲われ、
昨日その報を受け、
信長が肉を今日の接待に用いたということだった。

 「長篠城救援を果たし、
志多羅で戦勝の宴を催した際、
仙鳥であるとして焼いた仏法僧を食したものだ。
 寺社が禁忌の網を掛ければ鹿は神の使者となり、
死体が家の前にあったというだけで、
その家の者は罰せられたという。
 鳥も鹿も変わりあるまいに。
変わりあるのは人が作った悪法だけじゃ」

 信長の合理主義は鹿が権威に利用され、
人々が鹿、
つまり権威に慄き暮らすのは正しからずと目に映り、
鹿はあくまで鹿でしかなく、
悪法の先兵である姿はけしからぬということなのだった。

 




 


 

 

 

 


 


 


 
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