第290話 武田勝頼 岩村進攻(5)信忠の覚悟

文字数 991文字

 元助が尚、たたみかけた。

 「総大将は暁を前に号令一下、
若鹿の前立ても勇ましく、
城兵を追い込む野戦にて御自ら先陣をつとめられ、
進撃したのでございます」

 「先陣を!」

 「城攻め出陣の直前、
決死の覚悟の総大将であったと、
後ほど、近侍の尾関三郎から聞き及び、
感涙に耐えませず……」

 「決死の覚悟……とな?……」

 「三郎が申しますには……
三万の軍勢を任されて布陣すること六か月、
時候は夏から冬にとなった。
ここまでよく辛抱し、ついてきてくれた、
三郎、勝丸にはここで礼を言っておく。
この一戦で万が一にも敗北することがあったなら、
この身は岐阜へ帰るわけにはゆかぬ、
それでは上様に申し訳がたたぬ故、
腹を割き、自決する所存である、
首は三郎の責において必ずや岐阜へ届けるように」

 「自決すると申したか!」

 「三郎、勝丸は驚きながらも気圧されて、
何も申せませず、二人して、
よもや若殿が腹を召されるようなことがあったなら、
我ら二人も追腹(おいばら)躊躇(ためら)う理由は何もないと
若殿の居られぬところで(しか)と言い合ったそうでございます」

 人目もはばからず信長は泣いた。
信長につられ、集まった家来衆も涙を禁じ得なかった。

 「流石、若殿、上様の御嫡子じゃ……」

 「三郎、勝丸も、捨て置けぬ。
特に三郎は満月三郎、丸狸と言われたに、
まさかの大化け。
狸なだけに化けも化けたり、たいしたものだ」

 三郎が狸云々の声に笑いが広がって、
信長も泣き笑いになった。

 「三郎が若殿の愛小姓とは当初、
我が目、我が耳を疑ったものだ。
 然るに人とは分からぬものよ。
あの子狸が見事に化けおった」

 元助が、

 「それもこれも御人徳でございます。
先陣を果たされる総大将をお護りすべく、
三郎、勝丸両名は馬廻り衆に負けぬ奮迅ぶりにて、
総大将の御刀を汚させることない働きだったと
聞き及びます。
これを若殿の御人徳の賜物と言わず何と申せましょう」

 「うむ!」

 籠城戦は城の中も地獄だが、
包囲する軍勢も過酷極まるもので、
それが半年も続いたのだから、
天下を統べる織田家の嫡男、信忠にとり、
文字通り生死を賭した一戦だったに違いなかった。

 三郎、勝丸、若殿をよう支えてくれた!
三郎!勝丸!感謝に耐えぬ!
 そして竹丸も!
 儂は何も出来なんだ、
ただここで、喜びと安堵の涙を流すのみ……

 様々な感情が渦巻いて、
視界は一気に曇り、とめどない涙が溢れ、
堪えても堪えても、嗚咽は抑えきれなかった。




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