第180話 筑前守

文字数 849文字

 筆の流れる先が一早く目に入る位置に居た仙千代は、
 
 「羽柴藤吉郎秀吉。筑前守(ちくぜんのかみ)!」

 と声をあげた。

 「西へ南へ、藤吉郎には今後、進軍が待っておる。
筑前は妥当であろう」

 生まれつき、軽んじられ、
いや、蔑まれるだけの暮らしを送った秀吉の
大喜びする様が思い浮かんだ。

 丹羽家の家臣となった今も信長の指令で政務や交渉にあたり、
諸事に詳しい信定が一言入った。

 「古くからの家柄である藤原流内藤家が代々、
縁戚内で筑前守を通しておりまして、
重複致しまする」

 信長は意に介さなかった。

 「内藤の筑前は形骸化して既に長い。
十兵衛が日向守(ひゅうがのかみ)に任じられるというに、
藤吉郎を放ってはおけぬ。
また、藤吉郎まで任官されるとなれば、
眼の前のこの分からず屋も流石に我もと心から、
任官を願うであろう」

 秀吉は、
安土山に居残っていた六角家の旧臣達を追い出した上、
懐柔し、長浜城下に住まわせて、
新しい城の地ならしを事実上もう始めていた。
 長秀にしてみれば、
ずっと下に居て眼中になかったはずの秀吉が、
いつしか大戦(おおいくさ)を任される大将となり、
一国の主となった姿を眩しく見る心理が無いではないであろうに、
それを己の力不足と捉える心は、
やはり敬うべき、まさに股肱(ここう)の臣そのものの姿だった。

 長秀の官位拝領と安土城普請総奉行任命は、
決着がつき、次は各奉行衆を決める談義に、
いつしか入って行った。

 儂が何を言わぬでも、
上様は羽柴殿を築城の御奉行に据えられるであろう、
なればこその筑前守(ちくぜんのかみ)……

 長篠城を奪還し、
三河から武田の勢力を排除した戦勝の夜、
城造りの際には是非とも役に立ちたいと
仙千代は秀吉から強く売込みを受けていた。

 羽柴殿、願いが叶いましたな!……

 秀吉の積年の苦闘を思い、
仙千代は心中で祝福を送った。
 
 長秀一行が宿泊してゆく準備があって、
退室した仙千代は、
いよいよ始まる天下の城造り、
功績のあった重臣方の任官と、
織田家の躍進、信長の覇道の拡大を一段と確信し、
愉快にも有り難く蹴鞠の会を拝見させていただいた余韻もあって、
一人、笑顔が収まらなかった。

 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み