第392話 木茶碗

文字数 1,460文字

 仙千代一行が岐阜を目指して北上し、
天王川の三宅川と萩原川が合流する辺りに差し掛かろうという時、
津島での興行か、
拓けた河原に山口座の(のぼり)がはためいていた。

 病み上がりながら本来の性根の強さを見せ、
洋々と振舞っていた小弁が身を硬くした。
 三人で競い合うように歩を進めていた虎松、藤丸が、
小弁を守るように両側へ寄り添った。

 「何も恐れることはない。
小弁は万見隊の一員。
 山口座へ帰されることはない。
案じるな」

 と彦七郎が声を掛けた。

 仙千代らの道程は明らかで、
鯏浦(うぐいうら)から岐阜へ陸路で上がるとなれば、
ほぼ一本道だった。
 神社、湊で栄える津島は、
旅の一座には立ち寄るに欠かせぬ町だった。

 見遣ると、山口座の老座員がこちらを目指し、
近付いてきた。

 座員は馬上の三人に頭を垂れ、

 「これを」

 と木碗を差し出した。
 古びて粗末な小茶碗は、
炭置き小屋で臥せていた小弁の枕元にあった。

 老人は小弁に、

 「達者でな……」

 泣いているのか笑っているのか。
 詫びているのか祝しているのか。
 貧困、病、蔑み。
 修羅をくぐり抜いてきた男の真意を、
仙千代は測りかねた。
 小弁は何か言おうとしたが言葉は発せず、
ただ頷いて、両の手で茶碗を受けた。

 彦八郎が馬を降り、

 「何故その茶碗を」

 と問うた。

 小弁が答えた。

 「食えるところへ行くんじゃ、
言い付けを守っておれば飯にありつける、
言うことをきいて励めば銭も稼げる、
それでお母(おっかあ)の酒毒も治してやれる……
そんなことを大人達に言われ、
このお爺(おじじ)に背負われ、村を出た……
 長雨で村は食うものが無くなり、
あれば(かび)て腐って臭いを放ち……
 そんな雨の日じゃった……」

 「村で使っていたのだな、その茶碗」

 と彦八郎は目を赤くした。

 老人が、

 「何を勘付いたのか、
小弁は咄嗟に茶碗を手に取って。
 それだけが小弁とあの村を結ぶ(よすが)……」

 「お母は、その後、一年、二年であの世へ逝った……
死んでずいぶん経って、知った……」

 溌溂としていたはずの小弁が、
透けるように儚かった。

 「梅之丞は何処だ」

 彦八郎に老人は、

 「あれに。あの柳の大木の下に。
座して頭を伏せ……」

 一行が見た先に伊吹おろしに柳の枝が揺れて髪を乱し、
寒風に身を晒す梅之丞の姿があった。
 梅之丞は微動だにせず平伏していた。

 「小弁に顔向けできぬと……。
茶碗は儂に持たせ……」

 彦七郎が斬った傷は癒えておらず、
手の甲はぱっくり割れたまま、
血が赤黒く凝固していた。

 仙千代は、

 「いずれ、座の評判を耳にするであろう。
梅之丞の改心はそこで明らかになる。
 楽しみにしておるぞ、
芸を受け継ぐ若梅の誕生を」

 と別れの言葉に変えて、告げた。

 天王川を後にして津島を離れるという頃、
ふと藤丸が尋ねた。

 「そういえば小弁。
真の名は何というのだ」

 一瞬の間を置いた後、
小弁は一気に堤を駆けて先に行き、
先程の木茶碗を石へ向かって投げて割り、
仁王立ちとなってこちらを向くと、

 「儂は小弁じゃ!山口小弁!
今日この日、儂は生まれた!
村の童はもう居らん!
 儂は山口小弁!
生まれたばかりの山口小弁じゃ!」

 と次には両手を青天に上げ、
何ものにも囚われぬ笑顔を見せた。

 虎松、藤丸が走り寄り、

 「小弁!」

 「小弁!」

 と三人は手を繋いで輪を作り、
ぐるぐる回って(はしゃ)ぎ、やがて地面に縺れて倒れた。

 「こらあ!戯れておる間に歩みを進めよ!」

 彦七郎の怒声が飛んだ。
 三人は直ぐ立ち上がり、着物の砂を払うと、
やはり手を繋いだまま、
ワーッと叫びながら走っていった。

 仙千代は白銀の御嶽山が笑っていると
確かに思った。 
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