第89話 岐阜城 万見邸(4)陽光③

文字数 862文字

 閨房には衣桁(いこう)があった。
すっと風が吹き、
掛けられていた小袖が揺れたのを
信長の肩の向こうに見た時、

 「上様!鼠が!」

 と、仙千代は口走った。

 「何?」

 その隙に褥に身を起こし、
乱れた夜着を直した。

 「居らぬぞ、何も」

 「左様でございますか。
それは怪奇な」

 「ここは鼠が出るのか」

 「鼠か猫か、はたまた、化かし狸か。
 何でございましょう。
衣桁の着物が揺れたのでございます」

 信長は仙千代の本意に気付き、
拳で軽く頭を(はた)く真似をした。

 仙千代は涼しい顔を取り繕った。
 寝込みを襲っておきながら、
髪の乱れがけしからぬと叱った信長に、

 「御髪(おぐし)が乱れておりますよ」

 と、むしろ、半ば意趣返しで言うと、
主の髪を指でなぞって整えた。

 してやられたとばかりの信長に、
尚も、

 「仙千代の毛穴は、いずれ、
灯りの下で数えてくださいませ」

 と甘い言葉を敢えて淡々と口にして、

 「食えない奴だ。面白うない」

 と不貞腐れ顔を向けられても、
仙千代は微かに笑ってやり過ごした。

 信長はふたたび唇を重ねてきた。
 それはごく軽いもので、
その欲情はもう潜まっていた。

 「仙千代」

 褥に並んで座して、肩を抱かれた。
 手の温もりが心地好かった。

 ぴいひょろと(とび)が鳴き、
板戸の開いたところから、
初夏の陽が差し込んで、
岐阜は世の戦乱と無縁に穏やかだった。

 「何やら退屈でな、仙が居ぬ日々。
儂は怒鳴り散らしておったらしい。
於濃(おのう)が呆れておった。
皆が迷惑しておりますと言いよって。
仙千代のこれしきの不在に堪えられぬようでは、
この後、却って仙千代が気の毒であるとも。
仙千代無しでは苛立ちが抑えられぬというのなら、
仙千代は永遠に出世できませぬとな」

 仙千代が岩村に出向している間、
信長が日に日に落とす雷を大きく、多くしていたことは、
邸の下男から聞いていた。

 於濃とは鷺山殿こと濃姫で、
信長が最も苦手とし、
同時、大切にしている女人だった。

 仙千代の不在が信長の機嫌を悪くして、
周囲に厳しくあたるとは如何と、
たとえ冗談混じりにせよ、
口の端に上らせられるのは、
鷺山殿だけだった。
 

 
 
 

 

 
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