第35話 熱田 羽城(6)加藤邸⑥

文字数 1,061文字

 「図書之介(ずしょのすけ)殿、
ほんの十日前とは別人のようでございました」

 蜜事の後の気怠(けだる)さを一掃するかのように、
竹丸の口調は涼やかだった。

 「積年の鬱憤が晴れると、
人はああまで変わるのか。
今宵は確かに健勝そのものであった」

 十日前、岡崎へ出立の朝、
熱田の宝前に姿を現した図書之介は、
三河の合戦に参じる覚悟の甲冑姿ながら、
いかにも鎧が重く見え、
六十という齢を十分感じさせるものだった。

 老将の身を案じ、
鳴海に差し掛かったところで、
信長は信忠の馬廻りを務める図書之介の息子を呼び、
図書之介は引き返し、
羽城で戦勝の報せを待てと命じた。

 本人は意気軒高を装っていたが、
出陣式で信長に酒を注いだ時の手指の震えは、
果たして文字を書くにも苦労だろうと思われた。

 それが今夕、信長を迎えた際は、
十も若返ったような風体に映り、
瞳の明るさが際立った。

 「病は気からと、よく言ったもの。
上様の御蔭によって図書之介殿の鬱憤が、
見事、晴れたのでございましょう」

 「うむ」

 図書之介の長男は先に他界していた為、
三方ヶ原で戦死した弥三郎は二男でありながら、
図書之介にとっては跡継ぎだった。

 しかし弥三郎の小姓仲間で、
信長の寵愛が深かった
岩室長門守(ながとのかみ)重休が亡くなった時、
信長は面立ちの似た弥三郎を岩室家に入れて、
岩室勘右衛門と名乗らせ、
後継者を失っていた岩室家の助けとした。
 その弥三郎が三方ヶ原で、
三年前に死んでしまった。

 「図書之介は子福者で、
数多の子に恵まれておる。
それでも嫡男、二男には、
とりわけ思いが向かうもの。
儂にとっても、
清須から桶狭間まで共に向かった弥三郎は、
忘れ難き家臣の一人。
竹丸の叔父、橋介同様にな」

 竹丸は、今一度、
薄荷の手拭いで信長の腕や手を清めた。

 「父は此度、
岐阜の守りで御城に残っておりましたが、
図書之介殿に負けず、
喜んでおるに違いありませぬ。
上様の武田成敗により、
やはり三方ヶ原で討死を果たした弟に
良い報告が出来ると」

 褥に座していた信長が横になると、
竹丸が団扇で煽いだ。

 「長谷川家の男子は竹丸のみ故、
もっと早うに縁組してやらねばならなかったものを、
戦続きでここまでになってしまった。
そろそろ嫁御(よめご)となる女子(おなご)を見付け、
白羽の矢を立てねばなるまい」

 「有り難う存じます」

 譜代の家臣で、信長の近侍であり、
見目教養に優れた竹丸は、
誰もが、婿に夫にと願って当然の若者だった。

 だからこそ相手選びは易くないと言えた。
主君の衆道相手を務めることは名誉であって、
そのような青年は何人もは居らず、
是非とも閨閥を結びたく思うのは、
誰しもだった。

 

 

 

 
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