第86話 岐阜城 万見邸(1)仁王

文字数 662文字

 眠っても眠っても、眠っていられた。
 いや、眠っていれば、
水晶山の水の精が現れて、
心地よい声が耳を撫で、

 「仙千代」

 と何処からか響いてくるのではないか、
間近に見詰める瞳の奥に心根の清々しさを見て、
今一度、慕う気持ちに思う存分浸り、
その名を呼ぶことを許されるのではないかと、
仙千代は夢の中に信忠を求め、
微かに朝の気配を感じつつ、微睡(まどろ)んでいた。

 「仙千代」

 声が降っている。

 ああ、若殿が……
若殿が来られた……

 仙千代は双眸(そうぼう)を閉じたまま、
胸の中で、

 勘九郎様……勘九郎様……

 と応え、甘くも微かに苦い感情に身を委ねた。

 信忠は織田出羽介(でわのすけ)勘九郎信忠といい、
今も勘九郎の名は生きていた。

 津島の旅で、かつて信忠は、
二人で居る時に平伏はするな、
名を呼べと仙千代に言った。

 勘九郎様……

 薄っすら開けた瞼の向こうは逆光で、
男が仁王立ちしていた。

 「馬鹿者の糞だわけ、いつまで寝ておる」

 馬鹿者、糞だわけとは、
昨夜の仙千代が大声で放った文言(もんごん)そのものだった。

 目を(しか)と開け、仁王立ちの主を見ると、
信長だった。

 「上様!」

 「朝餉に顔を見せぬから来てやったのだ。
不寝番が言うには昨晩(うな)され、
たわけだの馬鹿だの口走っておったというではないか。
何故、左様な夢見をしたのだ。
岩村で何があったのだ」

 邸に信長が顔を出すことは間々あったが、
流石に早朝にそれはなかった。

 仙千代が東濃へ出張っている十日足らずの間、
信長がいかに仙千代の不在に無聊を(かこ)ち、
待ちわびていたのか、
上辺だけであれば厳しく聞こえる口調の裏に、
別格の親愛、寵愛が伝わった。

 
 

 

 


 
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