第195話 常楽寺(6)涙①

文字数 772文字

 日頃、忙しく知恵、智謀を巡らせている秀吉のはずが、
縄張り奉行に推す人物が居り、
それが丹羽長秀だと知ると呆気とも言うべき顔となり、
ただ慎ましく聴き入った。

 「そうだ、丹羽の五郎左長秀じゃ。
羽柴藤吉郎なる者は、
五郎左が烏帽子親というわけではないが、
長秀の姓の一文字、羽の字を貰い、
(いみな)の秀も長秀の秀を踏襲したと聞いておる。
左様に慕う五郎左ゆえか両人は、
戦地でも息がぴったり合うて良い組み合わせ。
それは誰もが知るところ」

 「はは……」

 「申すのだ、五郎左が。
戦は些細な齟齬で隊は乱れ、
斬り込まれれば総軍崩れも必定、
藤吉郎の気働(きばたら)きに幾度助けられたか、
持って生まれた粉骨砕身の(しょう)は城造りに於いても
傑出の奮迅を見せるは明白にて、
是非とも縄張り奉行に推挙致したく、とな」

 仙千代の胸は温かな思いで満ちた。

 流石、丹羽様じゃ、
上様が兄弟、友と仰るだけの丹羽様じゃ!……
なりふり構わぬ追随をしてみせる羽柴殿を認め、
むしろお側に引き寄せ、助け合い、
御城を共に築かんと栄えある地位を推薦された……
斯様な御方はなかなか居られぬ……
やはり、流石の丹羽様じゃ……

 目端が利き、如何なる仕事も拒まぬ(たち)で、
信長の目に留まるまで、
いや、織田家に身を寄せ、
才気を露わにして以降も出自を故として、
誰にも便利に使われてきた秀吉がぐいぐい頭角を現し、
大名となって官位まで授かるとは他家では有り得ぬことで、
信長の許であるからこその栄達だと言えた。
 未だ秀吉に対し、
下賤の出であるという意識を捨てない者が少なくない中、
長秀のように平らかな眼差しを持った人物は秀吉にとり、
それこそ幾重にも感謝してまだ足りぬ存在だと言えた。

 床についた両手を重ね、
平伏している秀吉の肩が震えていた。
 その頬はきっと濡れているのに違いなかった。

 と、襖を隔てた次の間で、
おーんおんという赤子にも似た泣き声がした。


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