第332話 鷺山殿の名代

文字数 1,482文字

 「ほう……鍋か」

 その名を耳にするなり、
信長の気風がさっと変じた。

 於鍋の方は戦乱で夫を喪い、
信長の側室となった女人だった。
 そもそも近江北里村の土豪の四女で、
見目が良く、文学を嗜み、非常に聡明であるとして
近江の八尾山城主である小倉実房に玉の輿で嫁ぐこととなり、
二人の男児をもうけた。
 小倉家はその先代から織田家と通じており、
信長が朝倉義景、浅井長政に挟撃を受け、
絶体絶命の窮地に遭った際、
実房の指示で撤退を助けられ、
信長と僅か十人程の馬廻りは京へ逃げ帰ることが出来た。
 その後、惜しくも実房は、
城を落とされ討死となり、
当初、鷺山殿の侍女として、
二人の子を連れた於鍋を織田家が引き取ったのだった。
 於鍋は小倉城主の正室として近江の武将のみならず、
京にも人脈を持ち、
しかも二人の息子が優れて育っていた為に、
信長、鷺山殿、二人の覚えは極めて目出度く、
両人の意見の一致を見、
暫く前から側室に身分を変えていた。

 信忠も於鍋の方が鷺山殿の名代とは、
まさに適材適所、妥当であると思われた。
 於鍋の方は若く体力があり、
何も姫が材木や石を運ぶでないにせよ、
普請の現場へ出向き、
指示を与える場面が無いとは言えず、
であれば、鷺山殿より役目に適い、
また何よりも、
権益、思惑が絡みに絡んだ畿内の事情を、
肌身に染みて知っていた。

 「於鍋か。その手があったか。うむ」

 「於鍋殿には言い含めてあります故、
上様の御声掛けさえあれば、
明日にでも出立できましょう」

 「何!言い含めてあると申すか」

 「上様が何故、御自ら於鍋殿の名を出さぬかと、
実はそれで機嫌を悪くしておったのです」

 「それはだな、
正室が為すべきことだと考えたからじゃ」

 「於鍋の心根の正しさ、裏表の無さは、
侍女としての働きぶり、
二人の息子の聡さ、快活を見れば明らか。
 上様の側室で、この濃が選び、奨めた女人は、
於鍋が初のこと。
 性質温厚にして、しかも壮健そのものの於鍋なれば、
此度、近江へ館を設け、
上様の休息所とすれば新たな御子に恵まれるやもしれず、
誰にとっても悪くない話ではございませぬか」

 「鍋は何も言わなんだ、儂に」

 「女は女同士です故」

 鷺山殿は微笑んだ。

 「於鍋殿の境遇は他人事と思われず、
またあの者も私を慕ってくれた。
 幾らか頑固なところがあるのは愛嬌。
明るい人柄は御多忙極まる上様を和ませましょう」

 新年を待たず信長は
安土の佐久間信盛邸へ移る段取りとなっていた。

 「久太郎、どうじゃ」

 堀秀政に声が掛かった。

 「はっ、流石の御慧眼と感服致してございます」

 「慧眼。まあ、な。
認めざるを得ぬ。
 鍋なれば畿内の人脈を知り、
齢からしても普請場で働く女達を、
何かと細かに助けてやれるであろう。
 長丁場の厳しい現場故、
何が起こっても不思議はない。
 鍋の若さは大いに助けだ」

 秀政もすっかり笑顔になっていた。

 「仰せの通りでございます。
佐久間邸の他に於鍋様の館が造営なれば、
上様には心休まる別邸となり、
於鍋様の地縁血縁から推し量りますれば、
畿内の情報収集の新たな場にも成り得ましょう」

 「まさに!なるほど。
仙千代はどうじゃ」

 「御方様(おかたさま)の御支持をもって名代として、
於鍋様がお働きあそばされるのであれば、
憂慮は一切ございませぬでしょう。
 安土殿として御方様が御入府あそばれ、
若君、姫君が、御同道あそばす日が
一日千秋の思いで待たれるところでございます」

 「うむ!
その際ここから養母上(ははうえ)が去っても困らぬよう、
殿は美濃を確実に掌握しておらねばなりませぬぞ」

 信忠は今一度、

 「御言葉、確と胸に刻み折りましてございます」

 と深く平伏した。

 

 





 



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