第2話 いらっしゃいまし
文字数 1,656文字
陽が暮れかかりアイリ達の乗る商業人の幌馬車の主が女2人に声をかけた。
「お嬢さん達、もうじきハヒゥランタに着くんだが、儂はそこに泊まっていく。お嬢さん達は他の馬車に乗り換えなさるかい?」
少女はどうするとばかりに元異端審問官ヘッレヴィ・キュトラの顔を見て無言で尋ねた。
「アイリ、一泊してゆきましょう」
そう言われこいつと同じ宿に泊まるのかとアイリは一瞬考えめんどくさく思ったが、魔女嫌疑を仕掛けた奴の名を聞くまでは帰れそうにないと肝を据えた。
野原が途切れ小川に渡る小橋を幌馬車が通り過ぎるとポツポツと家が見え始め、すぐに軒が連なり始めた。
「ハヒゥランタ?」
少女が尋ねるとヘッレヴィが頷いて説明してくれた。
「東のヴィツキンという小国に教皇様はおられる。このハヒゥランタはその外周にある西の特別司教区の街の1つだ。ヴィツキンに近いため熱烈な信者が多い」
ヴィツキンは人伝に聞いたことがあるとアイリは思った。
大陸にある国のどれもが王家のある王政ばかりだが、ヴィツキンは独自の兵を持ちながら、唯一王のいない小さな国だと聞いたことがあった。
代わりに君臨するのが教皇でその下に枢機卿団があり各教区を取り仕切る司祭が派遣されている。
特別教区というからにはたぶんヴィツキンの教皇様が力を入れて布教されてるぐらいに少女は考えていた。
幌馬車が止まる前に元異端審問官がアイリに顔を寄せ囁いた。
「アイリ、入信を誘いかける信者を軽んじるな。我から離れないようにして、声かけられても迂闊な返事をしないように。面倒なことになるぞ」
そうかしこまって言われると、なんだか不気味だと少女は思った。
それでも追い剥ぎでもない普通の街人。何が面倒なのだとアイリは聞き流した。
幌馬車が曲がり止まると荷台から下りた2人は小綺麗な宿を眼にした。
まずはご飯食って、湯浴みしてベッドで寝るぞと両腕を振り上げ背伸びしながらアイリは牢屋の固い床に毛布一枚で寝たのを思い出した。
「ちょっと旅のお嬢さん方!」
アイリとヘッレヴィが振り向くと人の良さそうな叔母さんが手揉みしながら立っていた。
「ようこそハヒゥランタへ。宿屋なんかに高いお金払って泊まらなくてもうちにおいでな。タダで泊めてあげるし、たんまりご馳走するわよ」
たんまりご馳走という話にアイリは頷いて返事しかかると、いきなり元異端審問官に足を踏まれ少女は呻いてしゃがみこんで足を押さえた。
「お申し出、感謝いたします。ですがいつもこの宿にと決めておりますゆえご厚意だけ頂いておきますのでお気になさらず」
しゃがみこんだ少女はヘッレヴィ・キュトラがすらすらと断るのを唖然となりながら見上げた。
「そう警戒なさらずともよいではないか。金品を要求したりしませんから。ちょっとこの紙に御二方サインして下されば──」
叔母さんが服から取りだした紙を広げヘッレヴィ・キュトラに差しだすと元異端審問官が押し殺した声で警告した。
「我はデアチ国異端審問官ヘッレヴィ・キュトラなるぞ。信者とて容赦なく取り調べることで広く知れ渡った審問官である」
叔母さんの顔色が変わり紙を引っ込めて後退さった。
「そ、そうかい。宿を予約してるんじゃ仕方ないね。またにしようかね」
そう言い捨てるなり叔母さんが踵返しすたすたと歩き去りアイリは立ち上がりヘッレヴィに抗議した。
「なんで断るんだよ。名前書くぐらいでタダ飯タダ宿なんだぞ」
眉根寄せて元異端審問官が少女に顔を近づけ告げた。
「アイリ、貴君は注意を守れないのか? 迂闊に返事するなと我が言っただろ。あの人が出した紙は入信書だ。名前を書いたが最後、親兄弟皆の財産すべてを差しだすまで洗脳されるぞ」
「いっ!?」
思わず声をもらし少女は後退さった。
その背中が何かに当たりアイリ・ライハラが顔を振り向けると見知らぬ人の良さそうな叔父さんから見下ろされた。
「やあ、お嬢さん方、旅にお疲れでしょう。うちに来なさい。ゆっくりできるし、ご馳走を振る舞いましょう」
少女は痙攣するように跳び離れた。
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