第10話 強烈
文字数 2,233文字
「またお寄りなされ」
イラ・ヤルヴァの育て親──ユリアンッティラ公爵に言われイルミ・ランタサルは軽く会釈して礼を述べた。
「ありがとうございます。旅路の帰路にお土産を用意し足を運ばさせて頂きます」
変態──と思われるが、尻尾を出さない公爵はイルミ王女の乗る先頭馬車の操馬台に座りぬぼーとした少女へ恨めしそうに視線を送ったのをイルミ王女は見逃さなかった。
「それではご機嫌よう」
そう言って王女は操馬台に上がり腰を下ろし手綱握る少女に命じた。
「行きましょうアイリ」
だが一向にアイリが手綱を振らないので
「出発しましょうアイリ」
だがアイリはぬぼーと動かない。
「アイリ! 行きますわよ!」
イルミ・ランタサルが声を高めるとやっと少女は腕を動かした。だが何かしら様子が変なのでイルミ王女がじっと見ていると、アイリは片側の手綱を引きっぱなしで身動きをとらず、荷馬車は噴水池の方へどんどんと逸れ始めた。
「イラ! アイリと御者を代わってちょうだい」
イルミ王女が半身振り向きそう頼むとイラが荷物を乗り越え操馬台へ下りてきた。
彼女は少女の横に腰を下ろし手綱を握ると馬を門の方へ向け始める。アイリはイラとイルミ王女の間に挟まれぼけーっとしたままでいると。イルミ王女が少女の服の匂いに気づいてすんすんとそれを嗅いで顔をしかめた。
鼻の曲がりそうな匂い。
「この子、夜通し何をしてたのかしら? 服にきつい残り香を染み込ませて」
イルミ王女が呟くとイラが妙な事を王女に伝えた。
「御師匠は鬼ごっこをされていました」
「鬼ごっこ? 誰と!? まさかイラ、あなたと?」
「いえ、私は途中で寝てしまったのですが、朝がた眼を覚ますと執事とまだお続けになられていましたから」
イルミ王女は昨夜、少女が眼が冴えて困ると言っていたので館周りを走らせはしたが、まさか夜通しそんな事をしていたなどと知りもしなかった。
だが鬼ごっことアイリの残り香に何の関係があるのだと王女は思った。もしかしたらイラが知っているかもと尋ねた。
「イラ、アイリの服の匂い何ですの?」
「執事が御師匠に元気が出るようにと鰊漬けを勧めていましたから、その匂いです」
鰊漬け!? デアチ国の元老院の長──サロモン・ラリ・サルコマーへ嫌がらせのために献上品に加えた燻製鰊よりも臭いと聞いた事のある発酵魚漬け!
イルミ・ランタサルは傍に座るアイリから身を離し操馬台の端へ身を逃がしぬぼーとした少女を横目で見つめぼやいた。
「元気が出るどころかこの体たらく」
「ああ、王女様、御師匠は鰊漬けの臭いがお嫌いだったみたいで逃げ回っていましたから」
王女達の荷馬車が門を出る間、開いた鉄扉の横で執事ユリウスが深々と一向にお辞儀をしている。王女はユリウスが何ともなさそうなので怪訝な表情になった。
アイリを追いかけていた高齢の執事がしっかりしているのに何故アイリだけがこんなに疲弊してるの?
鰊漬けの匂いに負けてしまった?
この子にそんな弱点があってはならない!
1人で1騎士団以上の働きができるアイリ・ライハラがたかだか魚漬けていどに参っていては、敵国の奸計に我々は苦境に立たされる事になるわ! そう王女は考えた。
「ヘリヤ!」
王女は荷物後ろの空きスペースに座る侍女に声をかけた。
「はい、王女様」
「お前、鼻を布でふさぎ荷物の後ろ側にある樽から魚の燻製を数枚取り出し薄布で巻いてまとめなさい」
「かしこまりました」
荷台でがさごそと音がして、いきなりヘリヤのうめき声が聞こえた。馬車が進み風上にあるはずの操馬台にまで樽の中味の匂いが押し寄せてきた。
イルミ王女はくらっときて荷台の縁をつかみ堪え、手綱を握るイラも眉をしかめ馬も落ち着きをなくし始め後続の荷馬車でも騎士らがざわつき始めた。
「お、王女、様──何ですか、この強烈な!?」
イラが片手で鼻をつまみイルミ王女に尋ねた。
「燻製鰊です」
イラはこの世で鰊漬けが一番臭いと聞いていたが嘘だと悟った。鼻をつまんでいても鼻腔に容赦なく突き刺さってくる。
「王女様、ご用意いたしました」
鼻を厚布でふさぐヘリヤの声がこもって聞こえた。
イルミ王女は片手で鼻をつまみ荷台の上に身を乗り出し侍女から布巻きにされた燻製鰊を受け取ると操馬台に戻った。
邪悪な魔王の如き敵意を見せる匂いに操馬台が包まれた。
その途端にイラは操馬台外に顔を突き出し朝食を吐き戻した。
イルミ王女はしかめた顔を背けながらその布巻きの燻製魚をアイリの首に回し首後ろで端を縛った。
とたんに胡乱としていた少女が顔を引き攣らせ勢いよく立ち上がった。
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