第410話 仏法僧の夜(9)二人の秀吉①

文字数 886文字

 志多羅の合戦で柵に使用した木材全部、
如何様(いかよう)に使っても良いと許しを得た石川数正の使者は、
信長に重々の礼を述べ次第、
大急ぎで陣城へ戻っていった。
 既に材木を、
百姓達が持ち出し始めているので、
無法な様相を呈さぬ前にということなのか、
見るからに挙動が落ち着かず、慌てていた。

 「何だ。あいつは」

 と信長は呆れて笑い、
信玄に対する長年の鬱憤を晴らした今日、
上機嫌を隠しもしなかった。

 「我が軍も徳川も痛手を被りはした。
だが、勝頼はほぼ赤裸(あかはだか)で逃げ帰ったのであろう、
それを思えば今宵は月を見ても星を見ても、
笑いが止まらぬわ」

 「上様の進取の御気風が、
存分に発揮された戦でございました」

 「うむ」

 縁に立っていた信長が、
御座所に行こうとする寸前、
仙千代が、

 「鳶が巣山(とびがすやま)砦奇襲戦で、
先導役を務めました者を先ほど見掛け、
挨拶を受けました」

 と声を掛けると、

 「覚えておるぞ。
豊田であろう。
(いみな)が羽柴藤吉郎秀吉と同じ故、
ここに残っておる」

 と頭を指し、足を止めた。

 諱は忌み名とも言い、
君主、親であっても、
面と向かって口にすることは稀で、
敵は別として、
相手をその名で呼ぶことは極めて無礼とされた。

 「名まで覚えてくださっているとは!
さぞ喜びましょう」

 「たいした働きであった。
顔も名も忘れるものか」

 「五砦陥落の急襲話を、
せがんで聞かせてもらっておりました」

 「あの者は(きこり)に身をやつし、
危険な斥候を自らの意志で行い、
武田の砦の詳細を知らせてくれた、
此度の戦の立役者、
儂も今一度、会っておきたいものだ」

 信長は地声が大きい。
おそらくこの談も、
外の藤助に筒抜けに違いなかった。

 信長が外へ向けて呼んだ。

 「藤吉(とうきち)
何処ぞ!直ちに出でよ」

 仙千代は内心、

 いや、上様、
あの者は藤助でござる、
藤吉ではございませぬ!……

 と思ったが、織田、徳川両軍の、
数多の武将の(かばね)、通名、諱、
果ては幼名や官位まで頭に入れて命を下す信長が、
一度会ったきりの藤助を、
豊田秀吉と間違いなく記憶していたのだから、
藤助が羽柴藤吉郎秀吉と合わせ混ざって藤吉となろうとも、
有り難さに変わりはなかった。

 仙千代は敢えて、正さなかった。

 
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