第20話 紅の八塩(2)

文字数 1,504文字

 信重との出会いから別れまで、
途中、どれほど辛いことがあったとしても、
与えられた喜びは尚、大きく、胸にしっかり刻まれていて、
その思い出を取り出す度に甘美な思いで満たされる。

 若殿に愛しいと、あの者は言われるのか……
儂に言ったと同じ言葉をあの者に若殿は投げるのか……

 気付くと、信長の手が下帯にかかっていた。

 「どうした?仙千代。涙が滲んでおる」

 「いえ……違いまする」

 「涙ではないか。どうかしたのか?申してみよ」

 信重を想い、嫉妬の業火に焼かれ、
いつしか涙が流れていたことに、今、気付く。

 「仙千代を愛しい。悩みがあるなら儂には申せ。
仙千代を苦しめる者は儂が許さぬ」

 それを信長の口から聞くと、仙千代は尚、混乱が増す。
信長が居なければ信重と仙千代はどうなっていたのか。
だが、信長が居ればこそ、信重との再会が叶った。

 「殿……」

 仙千代は涙をぼろぼろ零した。

 「殿……」

 胸に顔を埋めて泣くと、背中を抱かれた。

 「何があったか申せ。何がそこまで辛いのだ?」

 信長の寵愛は有り難かった。
どれほど有能であっても、
君主の引きがなければ臣下の行く末は暗い。
 未だ何の実績もない自分を引き立ててくれている
信長に感謝をしないわけにはいかない。
 しかし、心では信重を想い、裏切っている。
それもまた、辛くはあった。

 混乱した仙千代は、見え透いた言い訳をした。

 「たまに家が恋しくなるのです。
鯏浦(うぐいうら)に帰りたくなるのです……」

 信長が大名や諸将との謁見をする際、侍っていると、
にこやかに談義をしたそれらの者が帰った後に信長は、
時に、面談の内容を竹丸や仙千代に噛み砕いて教え、

 「滑らかな口調で、よくもまあ。
あ奴は真は何を考えておるのか。面従腹背とはあ奴のことじゃ」

 と話したり、また別の人物に対しても、

 「あいつの考えになど興味は無い。
興味があるのは、あいつの知っていることだ」

 等など、仙千代からすれば、驚くようなことを口にした。
命を狙われ続けた半生の信長であればこその猜疑心で、
それを知れば致し方ないとは思う。

 ところが信長は仙千代の幼い言い訳にすんなり乗って、

 「左様か。家が恋しいか。
仙に何日も会えぬのは淋しい。一泊であれば帰って良いぞ」

 と、甘いことを言った。

 信長に申し訳なく、また涙が零れた。

 儂は殿のことも騙している……
斯様に良くしてくださっているというのに……

 何もかも、もう忘れたかった。
仙千代は、叫びにも似た声を放った。

 「帰りませぬ!仙千代の居場所はここでございます!
殿のお傍に置いてくださいませ!」

 もう支離滅裂だった。
信長、信重、清三郎、そして自分と、
絡まり合った糸が解けず、仙千代はすべて一旦、投げ出した。

 「殿!殿!」

 抱き着いて、自ら口を吸った。そんなことは初めてだった。
信長の驚きと喜びが、絡み合う舌、交歓される唾液で、
伝わってくる。
 いつも、ほぼ受け入れているばかりの仙千代が、
互いの鼻梁が歪むほど顔を押し付け、激しく口づけたので、
信長が褥に仰向けとなった。

 仙千代は倒れた信長の上に被さったまま、
小袖を脱いで、下帯だけの姿になった。
 信長の着物の襟を開け(はだけ)、首、胸へと唇を這わせた。

 「仙千代……」

 「何処へもやらないでくださいませ……
殿のお傍が良いのです……他に居場所は無いのです……」

 信長の思いが極まったような口づけを受けて、
今度は仙千代が下になった。

 「愛しい、仙千代!離さぬぞ、ずっと。
何処へもやらぬ。儂の傍に居よ……ずっと、ずっと」

 褥の脇の伴天連の鏡に、組み敷かれている自分の姿と、
覆い被さって夢中で愛撫する信長の姿が映った。

 褥の足元に、紅の八塩が乱れ落ちていた。





 


 


 

 

 



 
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