第231話 鷺山殿と日根野弘就(6)

文字数 787文字

 鷺山殿が泣いておられる……
泣いておられ……るのか?
よう分からん、儂には分からん、
だが、珍奇な場面を目撃したことは確かじゃ、
勝敗はどちらに転ぶのか……

 仙千代は喉の渇きを覚えつつ、
「劇場」を味わっている。

 「日根野の日の字ももう聞きとうない」

 信長が欠伸の真似をした。

 と、ここで信忠が、
唐突とも思われる間合いで、

 「母上様、宜しければ茶でも点てましょう。
雪が落ちて来たような」

 と入った。

 若殿はお優しい、ほんにお優しい、
とりわけ、鷺山殿には心から……
虎は虎でも若虎様はお優しい……

 仙千代は信忠の優美とも映る横顔に見入った。

 信忠は落涙の鷺山殿を慰めるように、
座したまま、身を半歩ほど、近寄せた。

 「さ、母上様。
茶室ではありありと近くに、雪を見られましょう」

 この時、鷺山殿は、
信忠の言葉に首を一瞬傾げるかのようにし、
直ぐ様、次には背筋を伸ばし、
今度は瞳が煌めいていた。

 「おお、若殿!
母の涙に情けをお寄せてくださって、
ああ、母は嬉しゅうてなりませぬ。
若殿は流石、若殿」

 仙千代が信長を見遣ると、
何と鼻の穴に指を入れていた。

 「何を二人でやっておる。
鼻がむず痒いわ、何だ、その三文芝居は」

 「孝行の心美しき若殿は我が自慢でございます。
ささ、殿もぜひ、御一緒に。
若殿の御手前を頂戴すると致しましょう」

 「いや、儂は左様な気になれぬ。
茶など飲まん」

 「若殿が仰せのように、
茶室では雪がありありと近くに眺められまする。
名物の織部も、うずうずしておりましょう」

 やはり泣いてはおられなかった、鷺山殿は……
目が赤くもなければ、腫れてもおられぬ……
三文かどうかは別として、
芝居だったのは違いない……
そこへ若殿まで加わって、いったい何だ?……

 信長は、ふと思い付いたように、

 「ありありと近くに……」

 と、母子が口にした修辞を自らも重ね、

 「仙千代!織部を持て!」

 と告げ、立った。



 
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