第242話 竹の花(3)
文字数 2,090文字
宴席の酒や肴が足りているかどうか確かめに、
広間へ仙千代が顔を出すと、竹丸の姿はなかった。
「おお、万見殿!一杯、召し上がれ」
先ほど、背を流した坂井利貞が盃を向けてきた。
仙千代は、
「有り難く頂戴致します」
と応じ、やはり一杯では済まず、
二杯、三杯と飲んだ。
利貞は上機嫌で、尚もすすめる。
「そろそろ酔いが回ってまいりました」
やんわり断ると、
「酒の修練も務めの内ですぞ、
ささ、もう少し、あと少し」
仙千代は酒に弱い方ではないが、
美味いと思うほどではなく、
特に美味いと感じず、酔いもしないのだから、
酒の有難味が今ひとつ分かっていない。
酔いが進んだ利貞はいつの間にか、
呼び掛けが万見殿から仙千代になって、
「いやいや、仙千代、朝まで共に飲もうぞ!
泣き虫の童であったあの仙千代が、
斯様に優れた近侍となって、
眩しいほどじゃ。
その人灯り を浴び、今宵は一献 、二献、百献じゃ」
「ひゃっ、百献ですか!」
「千献じゃ!」
仙千代は利貞の前で泣いたことはないが、
城にやって来て早々、
広小路堅三蔵 の件で、
着物を奪われまいと大号泣してしまい、
それが家中に広まって、
利貞の印象に植え付けられているに違いなかった。
当時、利貞は、手隙であれば、
幼い小姓達によく和算を教えてくれて、
根気の良い指導が人柄の誠実さを表し、
仙千代は好きな人物だった。
湯殿では気遣いから姓で呼ばれたが、
酔った上でのこととはいえ、
このように名を言われればその方が嬉しかった。
明日は朝から信長の謁見が数件あって、
側仕えの任を命じられている。
酒席に長居はしていられないところだが、
仙千代はしばらく付き合った。
「仙千代は確か、鯏浦 の出」
「はい」
「では、服部党は身近であったな」
長島一帯に勢力を誇っていた服部一族は、
服部党とも呼ばれ、
かつての領袖、服部友貞は、
伊勢平定を目指していた信長の誘いに乗らず、
願証寺や一揆衆と手を組み、
長島を守ろうとし、
永禄十一年、
伊勢で信長の刺客に追い詰められると自害を迫られ、
無念の死を遂げた。
以降、服部党は一貫し、
織田家に与せぬ 姿勢を通し、
先の長島征圧戦でようやく完全な敗北を遂げた。
「はい、存じております。
幼い頃は鯏浦のすぐ西にまで服部家の力が及び、
大人達からその一帯へ足を踏み入れぬよう、
注意を受けておりました」
「長島は我が殿の支配となって、
今や一向門徒は何の力も持っておらぬ。
だが、桶狭間に始まって、
浅井、朝倉に加勢をし、
長島での戦でも織田家に刃を向けた服部党は、
毛のひとすじ程度とはいえ、生き延びて、
長島と鯏浦を結ぶ辺りに舞い戻り、
田畑を耕す手伝いをして僅かばかり稼ぎ、
時に魚釣りをして、
何と今、住み着き始めておるそうな」
その話は万見の養父 と交わす手紙 により、
仙千代も聞き及んでいた。
もちろん、信長の耳にも入れてある。
「何やら、面白くなくてな、儂は。
長島での戦は特別な上にも特別であった。
殿の御血筋はじめ、数多の将、兵が、
命を賭して得た長島の地。
云わば、殿の御連枝衆の血で贖われた 地。
その目と鼻の先で、服部党が生き延びておる。
仙千代!儂は悲しいのだ。
今からでも討ち取りにゆきたいほどなのじゃ、
服部党を。仙千代、仙千代お!」
利貞は泣き上戸らしかった。
日根野弘就 、大木兼能 を例に見るまでもなく、
天下の覇権に突き進む織田軍は、
昨日の敵を友として吸収し、力を大きくしている。
それを知らぬ利貞でもあるまいに、
仙千代をがしっと抱き寄せ、男泣きに泣いている。
「坂井様、お気を確かに。
酒が涙で薄まりまする」
「仙千代も左様に思うであろう、
服部の奴等と魚釣り船で行き会えば、
舳先 をぶつけてみたくもなろう!」
「海上戦ですか、またも」
「そうだ、戦に勝ちはしたものの、
御無念を抱いておられるに違いない殿の恨みを、
お晴らし申し上げるのだ!」
「魚釣り船でですか?」
「そうだ!何処ででもだ!
畑で会えば鋤 で挑み、
田で会えば鍬 で襲うのだ!」
「はあ」
「はあではないぞ!仙千代!
儂に加勢せぬのか?するであろう!」
泣き上戸に忠誠心、闘争心が混濁し、
泣くわ、叫ぶわ、抱き寄せて肩を揺するわ、
仙千代は這う這うの体で眉が八の字になる。
場に居合わす歴々は、
また始まったというような面持ちで、
苦笑絡みで仙千代を気の毒そうに見ている。
「我が父からの報せでは、
服部の一族は若い者は討死し、
残った僅かな手勢で住み着いて、
見るも無残なぼろを纏い 、
その日暮らしもままならぬ様であるとか」
「だからと、あの地に来ぬでも」
養父とのやり取りで知るところによれば、
服部衆に若者は居らず、
女子供や年寄りばかりが、
中洲とも河原ともつかぬ危うい地勢の一画に、
身を小さくして暮らしているということで、
これを仙千代が、
ひと汗かき終わった信長の火照りを感じつつ、
寝物語でもないが、様子を伝えると、
信長は一度だけ小さく嘆息し、続けて、
「長島は滝川に任せてある。
滝川が放っておるならそれも良し。
万見殿は優しい御方じゃな。
服部の生き残りを哀れに思うておられるようじゃ」
と言うと、慈しみの眼を向け、
仙千代の髪の乱れを直した。
広間へ仙千代が顔を出すと、竹丸の姿はなかった。
「おお、万見殿!一杯、召し上がれ」
先ほど、背を流した坂井利貞が盃を向けてきた。
仙千代は、
「有り難く頂戴致します」
と応じ、やはり一杯では済まず、
二杯、三杯と飲んだ。
利貞は上機嫌で、尚もすすめる。
「そろそろ酔いが回ってまいりました」
やんわり断ると、
「酒の修練も務めの内ですぞ、
ささ、もう少し、あと少し」
仙千代は酒に弱い方ではないが、
美味いと思うほどではなく、
特に美味いと感じず、酔いもしないのだから、
酒の有難味が今ひとつ分かっていない。
酔いが進んだ利貞はいつの間にか、
呼び掛けが万見殿から仙千代になって、
「いやいや、仙千代、朝まで共に飲もうぞ!
泣き虫の童であったあの仙千代が、
斯様に優れた近侍となって、
眩しいほどじゃ。
その
「ひゃっ、百献ですか!」
「千献じゃ!」
仙千代は利貞の前で泣いたことはないが、
城にやって来て早々、
着物を奪われまいと大号泣してしまい、
それが家中に広まって、
利貞の印象に植え付けられているに違いなかった。
当時、利貞は、手隙であれば、
幼い小姓達によく和算を教えてくれて、
根気の良い指導が人柄の誠実さを表し、
仙千代は好きな人物だった。
湯殿では気遣いから姓で呼ばれたが、
酔った上でのこととはいえ、
このように名を言われればその方が嬉しかった。
明日は朝から信長の謁見が数件あって、
側仕えの任を命じられている。
酒席に長居はしていられないところだが、
仙千代はしばらく付き合った。
「仙千代は確か、
「はい」
「では、服部党は身近であったな」
長島一帯に勢力を誇っていた服部一族は、
服部党とも呼ばれ、
かつての領袖、服部友貞は、
伊勢平定を目指していた信長の誘いに乗らず、
願証寺や一揆衆と手を組み、
長島を守ろうとし、
永禄十一年、
伊勢で信長の刺客に追い詰められると自害を迫られ、
無念の死を遂げた。
以降、服部党は一貫し、
織田家に
先の長島征圧戦でようやく完全な敗北を遂げた。
「はい、存じております。
幼い頃は鯏浦のすぐ西にまで服部家の力が及び、
大人達からその一帯へ足を踏み入れぬよう、
注意を受けておりました」
「長島は我が殿の支配となって、
今や一向門徒は何の力も持っておらぬ。
だが、桶狭間に始まって、
浅井、朝倉に加勢をし、
長島での戦でも織田家に刃を向けた服部党は、
毛のひとすじ程度とはいえ、生き延びて、
長島と鯏浦を結ぶ辺りに舞い戻り、
田畑を耕す手伝いをして僅かばかり稼ぎ、
時に魚釣りをして、
何と今、住み着き始めておるそうな」
その話は万見の
仙千代も聞き及んでいた。
もちろん、信長の耳にも入れてある。
「何やら、面白くなくてな、儂は。
長島での戦は特別な上にも特別であった。
殿の御血筋はじめ、数多の将、兵が、
命を賭して得た長島の地。
云わば、殿の御連枝衆の血で
その目と鼻の先で、服部党が生き延びておる。
仙千代!儂は悲しいのだ。
今からでも討ち取りにゆきたいほどなのじゃ、
服部党を。仙千代、仙千代お!」
利貞は泣き上戸らしかった。
日根野
天下の覇権に突き進む織田軍は、
昨日の敵を友として吸収し、力を大きくしている。
それを知らぬ利貞でもあるまいに、
仙千代をがしっと抱き寄せ、男泣きに泣いている。
「坂井様、お気を確かに。
酒が涙で薄まりまする」
「仙千代も左様に思うであろう、
服部の奴等と魚釣り船で行き会えば、
「海上戦ですか、またも」
「そうだ、戦に勝ちはしたものの、
御無念を抱いておられるに違いない殿の恨みを、
お晴らし申し上げるのだ!」
「魚釣り船でですか?」
「そうだ!何処ででもだ!
畑で会えば
田で会えば
「はあ」
「はあではないぞ!仙千代!
儂に加勢せぬのか?するであろう!」
泣き上戸に忠誠心、闘争心が混濁し、
泣くわ、叫ぶわ、抱き寄せて肩を揺するわ、
仙千代は這う這うの体で眉が八の字になる。
場に居合わす歴々は、
また始まったというような面持ちで、
苦笑絡みで仙千代を気の毒そうに見ている。
「我が父からの報せでは、
服部の一族は若い者は討死し、
残った僅かな手勢で住み着いて、
見るも無残なぼろを
その日暮らしもままならぬ様であるとか」
「だからと、あの地に来ぬでも」
養父とのやり取りで知るところによれば、
服部衆に若者は居らず、
女子供や年寄りばかりが、
中洲とも河原ともつかぬ危うい地勢の一画に、
身を小さくして暮らしているということで、
これを仙千代が、
ひと汗かき終わった信長の火照りを感じつつ、
寝物語でもないが、様子を伝えると、
信長は一度だけ小さく嘆息し、続けて、
「長島は滝川に任せてある。
滝川が放っておるならそれも良し。
万見殿は優しい御方じゃな。
服部の生き残りを哀れに思うておられるようじゃ」
と言うと、慈しみの眼を向け、
仙千代の髪の乱れを直した。