第358話 牛窪

文字数 1,291文字

 五月十六日、
信長、信忠は三河国 牛窪(うしくぼ)城に入った。

 織田家と武田家との因縁では、
信忠と松姫の婚姻同盟が結ばれたのは、
勢いがあったとはいえ当時、小さな尾張が、
広大な所領を有する信玄の力を恐れたからであり、
縁談を恃んだ(たのんだ)織田家は頭を低くして、
武田の姫を信忠の正室として迎える約束を取り付けた。
 
 また、信長の叔母、艶姫が、
夫 遠山景任(かげとう)に他界され、
女城主となった東美濃の岩村城には、
信長の五男 御坊丸が養子として出ていたが、
信玄の西上作戦により信忠と松姫の婚姻が手切れとなって、
岩村城は武田勢に囲まれ、
危機に陥った艶姫は、
武田家による御坊丸の養育を条件に軍門に下り、
二年前には、
新たな城主となった武田方の武将 秋山虎繫の(つま)となっていた。
 
 信忠の異母弟(おとうと) 御坊丸は、
艶姫の助命嘆願が叶い、甲斐に送られ、
人質として信玄を養父として暮らし、
信玄他界後は、
現在の武田家当主 四郎勝頼の庇護のもとにある。
 
 尚も関係を複雑にしていることは、
勝頼の他界した前室は信長の養女だが、
信長の叔母の娘、要は血の繋がった姪であり、
勝頼の嫡男 武王丸が、
信長の血縁だということだった。

 織田、徳川、武田……戦国大名は、
皆が閨閥、養子縁組で結び付いていて、
例えば、
長篠で織田徳川連合軍の後詰を負っている今川氏真も、
勝頼と祖父を同じくした従兄弟にあたると同時、
氏真の叔母は家康の正室だった。

 誰がどのように勝っても、
血で血を洗う戦……
 しかし、やらなければ、
すべてを失う……

 戦乱の世の常とはいえ、
信長、信忠の胸中を思い、
ふとした一瞬、
仙千代は感傷を抱かないではなかったが、
当の二人は一向にそのような様は見せず、
戦支度に邁進していた。

 むろん、仙千代自身も多忙に過ごした。
 寄せられてくる消息、便りを取捨選択し、
信長に上げ、指示を諸将に伝えたり、
岐阜に詰めている秀政と連携し、
順次送られてくる物資や兵糧の分配を行い、
戦の遂行に支障を来さぬよう、
信長の近侍として的確な後方支援が求められた。
 先だって、
鉄砲を寄越すといっていた畿内の筒井、細川が、
鉄砲の撃ち手を用意できたというので、
書状を認め(したため)
急遽、長篠までの馬の乗継ぎの手配をするなど、
突発的な対応を求められることも少なくなかった。

 翌朝、一泊した牛窪で、
鳥居強右衛門(すねえもん)の訃報を知った。
 
 前日の午後、
強右衛門は味方に吉報を報せるべく、
長篠城に戻ろうと、
身を隠しつつ様子見していたところ、
武田兵に見付かって捕縛され、
城がよく見える西側へ連行された。
 援軍は来ない、開城すべし、
と強右衛門に言わせるが為の処置に違いなかった。
 勝頼の望むように、
武田を利する虚偽を言ったなら強右衛門は、
一命を失わず済んだのやもしれない。
 それを強右衛門は、己の身を捨て、

 「援軍近し!数日待て!
援けは必ず来る!」

 と叫び、城内に希望を与えると、
怒り狂った勝頼に逆磔(さかさはりつけ)とされ、
命を絶った。

 家康からの書は、
武士(もののふ)の忠義を疎か(おろそか)にする勝頼の自滅は免れないと結ばれており、
忠節の臣下を失った悲痛、
勝利への覚悟が滲んでいた。

 信長は、亡骸を丁重に葬り、
然るべき寺に墓所を建て、祀るべしと、
家康に返した。



 
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