第112話 小木江城 秀吉からの首級

文字数 1,109文字

 蝶よ花よというわけにはいかないにせよ、
一揆軍を籠城戦に追い込んだ後の日々は一見、
平穏たるものだった。

 散発的に戦闘が起きはするものの小規模で、
織田軍の損害は岐阜を発ったその日から二ヶ月を経た今日まで、
現段階、総数で二百、行ったとしても三百には届いていない。
 もちろん、塊で見る三百と個々人を識別した上での三百は、
まったく違っている。
だが、三千よりも三百が良いに決まっていることも確かだった。

 仙千代は織田家の家臣団の実力を目の当たりにした。
権謀術策的側面から見れば信長の戦略は合理そのもので、
算術の答えのように隙がない。
しかし、それを実行、完遂する統率のとれた家臣団こそ、
凄まじかった。

 信長は昨日刃を交えた者も才を認めれば翌朝には臣下とし、
拡大する戦線を新たな戦力で補った。

 そのように「刃を交えた者」の中に樋口直房という武将が居た。
かつて浅井家に属し、
近江国坂田郡を代々治めた堀氏の家老で、
幼少の主君に代わり家中を取り仕切るなど経営手腕を発揮し、
(まつりごと)、智謀のみならず風流にも長けた一流の人物で、
元亀元年以降は浅井側から織田方に転身し、
秀吉の有力な与力として重きをなしていた。

 その樋口直房が、
越前で蜂起していた一向一揆軍と単独で講和を試み、
失敗した挙句、退転したことが秀吉の知れるところとなった。
 
 秀吉は激怒し、甲賀へ落ちのびようとした直房と妻、
一族郎党を追跡し、殺害した。
 直房と(つま)の首は、やはり一向一揆軍の鎮圧にあたっている、
長島の信長のもとへ届けられた。

 首級が首桶に入れられて届けられた時、
塩漬けにされているとはいえ、
夏のことで腐臭腐敗が猛烈なのだから、
何も信長自ら確認せずとも代理が検分すれば良いものを、
信長は自身で確かめた。

 首級実検は必ず鎧兜の正装で行われる。
死者に対する敬意もさりながら、
敵の怨念が妖術を起こし、
勝者を蝕むことがないようにという考えだった。
 信長は妖術云々を信じるものではなかったが、
臣下の士気を敢えて低くする真似は選ばなかった。

 侍る小姓達も鎧姿で首級実検に臨み、
仙千代も樋口直房とその正室の首を見た。

 いくら塩に漬けてあっても骨格以外の部分は腐り、
流れ落ちる。

 仙千代が知っている死の匂いは、縁戚の老人が、
病に臥して危篤を迎えた時に見舞った部屋に充満していた匂いで、
沼地で苔が発酵を進めたような濃く、重い匂いだった。

 部将の首を乗せる首級台はそれ自体は立派なものながら、
直房と室の首は強烈な臭気を放ち、
居合わせた全員が顔をしかめた。

 「確と現認し、間違いない」

 信長の言葉に、直ちに首級は下げられた。

 臭気に軽く眉をひそめ、唇を歪めた信長だったが、
喜色は隠しようがなかった。




 
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