第209話 村重の眼

文字数 865文字

 仙千代が荒木村重と会するのは昨年、
帝に信長が新たな元号「天正」を推戴する前、
つまり元亀四年の弥生に、
信長の随伴で初めて上洛する途中、
逢坂に村重が、
細川藤孝と共に信長一行を出迎えて以来のことだった。

 細川、荒木の両名は有力大名であると同時、
風流の人として名を馳せており、
逢坂という地名に、
「逢う坂」という縁を見出し、信長を迎えたのかと、
仙千代は興味深かった。

 一行は、藤孝、村重の露払いで東山に向かい、
華頂山知恩院に落ち着いた後、
信長が言うには、事あるごとに、
村重はずいぶん仙千代を見ていたということで、
指摘された後は確かに視線が気になり、
村重から度々笑みを向けられると、
仙千代は正直、どのように応じれば良いか分からず、
けして良い気分ではなかった。

 主君に引き立てられ、
閨房の相手も務めることは非常な名誉で、
小姓であるからと誰でもが成れるものではなく、
主の側も家中の組織図、人間関係を考慮の上で、
人材を選ぶ。
 
 そのような中、仙千代は特殊だった。
名高い家の子ではなく、
いや、無名と言うべき家筋で、
信長に従属する者が加速度的に増大する昨今、
とりわけ織田家に新しく参じた者達にとっては、
降って湧いたような存在であり、
しかも信長の最大級の寵愛を受けている。
 
 岐阜の城へ上がるまで、
仙千代にとり養父(ちち)はこの世の中心で、
すべてを教わり、授かって、
他の誰よりも素晴らしい、誇れる存在だった。
 若い頃、戦で大怪我を負い、
確かに華々しい戦績は無い。
家中での務めも裏方で目立つことは決してない。
 だが、今も仙千代には養父は誇りで、
自慢すべき人だった。
 穏やかで思慮深く、
他人を悪し様に言うことがなく、
辛抱というものを知っている。
身体の不自由がありながら武芸に勤しみ、
教養を高める努力も惜しまない。
何よりも、仙千代を心から慈しみ、
豊かでない暮らしの中、精一杯を与えてくれた。
 
 織田家中で、養父が、
つまりは万見家が無名であることは、
仙千代の心中に於いては何程でもないことだったが、
それ故に却って目立つ存在だと、
流石に仙千代も今では察しがついていた。



 
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