第398話 志多羅の戦い(17)武田一門衆

文字数 872文字

 陣の位置取りや築営に携わり、
大将の脇に控えるはずの陣場奉行 原昌胤(まさたね)が、
勝頼を無事に退却させる為、
自らは敵の標的になろうという構えを見せる中、
中央に布陣していた穴山信君(のぶただ)は、
勝頼に談判無くして後退を始め、
これを見るや、
武田信豊、武田信廉も、ひたすらに、
山深い鳳来寺山方面へ逃げ出した。
 
 穴山らが、
勝頼の断を待たず見捨てたことは、
動きを目にすれば明らかだった。

 「総大将を残し、引き下がるとは。
あれは撤退ではない、遁走じゃ。
何という……
呆れて物が言えぬわ!」

 怒りで信長は、
陣床几(じんしょうぎ)を激しく蹴った。

 床几を拾い、立てようとした者に、

 「捨て置け!」

 と怒気を露わにし、
顔を赤くしている。

 菅屋長頼が足した。

 「しかも信君、信豊、信廉は一門衆にて」

 「知っておる!」

 信長の八つ当たりの理由(わけ)は、
武士にあるまじき行為であるという認識、
そして、
尾張統一に至るまで、
血族に煮え湯を飲まされ続けた
信長自身の若き日の苦汁によるものだった。

 敗け戦の最中、
総大将を見限った三人は、
勝頼の叔父、従兄弟、
義理の叔父という織田家でいうところの連枝衆で、
勝頼にとり、
最も頼みの綱となるはずの縁戚だった。

 「あやつら!許さぬ!
あのような者どもと、
兵刃を交えたことすら汚らわしい!」

 本来、最後の最後まで留まるべき親類衆の逐電に、
武田軍は激しく動揺し、
他の部隊も続々と、
北の鳳来寺山を目がけて逃走してゆく。
 
 西は連合軍と陣城、
南は泥田、湿地、沼。
 東は酒井忠次(ただつぐ)、金森可近(ありちか)に、
長篠の城兵が合流し、武田兵を追い込んでいた。
 
 武田に戦線は、
もはや成立していなかった。

 勝頼に退軍を献じたものか、
今生の別れを告げた原昌胤は、
勝頼から離れると、
直ちに号令一喝、
百騎を越す兵を率い、陣城に突撃していった。
 織田、徳川の鉄砲隊の一斉射撃が、
梅雨晴れの空を打ち振るわせた。
 
 ひときわ大きな轟音は、
仙千代の顔を歪め、
耳の奥に勇者の雄叫びと嘆きを聴いた。

 「天晴れである」

 信長は昌胤の死を称え、
微かに溜息を吐いた。

 勝頼に命を捧げた昌胤と、
百有余の兵は、
志多羅の地に永久(とこしえ)の名を刻んだ。

 
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