第384話 志多羅の戦い(3)兜①

文字数 1,466文字

 武田軍に兵力を悟られぬよう、
織田徳川連合軍は煮炊きの煙を上げず、
朝餉を摂っていた。
 信忠、信雄(のぶかつ)も、
兵糧丸に味噌玉という高滋養ながら、
簡素な陣中食だった。

 「若殿と野で、
斯様に風に吹かれつつ、
某か食すなど、
遥か昔の幼き頃以来のことにございます」

 兵糧丸は、
各家ごとに成分も味も違っているものの、
米、蕎麦粉、きな粉、葛、胡麻、
松の実、梅干し、なたね油、蜂蜜等、
栄養価の高い原料を用いて作られ、
体力維持の目的の他、
気を安定させる為、
陳皮、薄荷といった生薬も含まれていて、
この時期の兵糧丸は、
山椒や生姜がよく効いて風味爽快だった。

 「いつぞや、長良(ながら)簗場(やなば)へ出掛けて、
鮎をつかみ獲り致しました」

 「うむ。
誰であったか、転びそうになって、
傍の誰ぞに捕まって、
結局、皆で滑って転んで、
腹を抱えて大笑いした」

 「あの時の鮎ほど、
美味であった鮎はございません。
晴天に恵まれ、山並みが瑞々しく」

 「で、あるな。
梅雨明けの緑風が爽やかであった」

 二人は母が同じだが乳母は異なっていて、
傳役(もり)も別々に付けられた。
 だが、異母弟の三男、信孝と信雄は同齢、
信忠は一歳上で、
兄弟は同じ城で育ち、
幼少時には共に文武を学び、
元服も岐阜城で同時に行われた。
 三人は揃って猿楽を好み、
一流の演者を観て育ったことから、
三人が三人共、小鼓大鼓を打ち、
舞えば誰もに称賛された。
 昨今は戦に忙しい上、
信長の描いた戦略上、
信忠以外は二人それぞれ、
伊勢の異なった大名家に養子として出され、
もう何年も、
兄弟揃って猿楽を演じて楽しむということは、
していなかった。

 「また三年前、
いや、四年前でしたか、
上様に戒められましたね。
小木江城で一向門徒衆に攻め込まれ、
御討死あそばされた叔父君の弔いで、
舞いを見せ」

 「覚えておる。
もう四年が経つか」

 不在の信孝は、
昨年の長島一向一揆征圧戦で初陣を果たし、
今回は伊勢に留まって、
彼の地が織田の勢力の空白帯にならぬよう、
睨みを利かす役を帯びている。

 「左様に金のかかるものに、
武家の男子が兄弟揃って、
(うつつ)を抜かすでないと」

 「兄上が弟二人の分まで叱責を受け」

 「であったかな」

 合戦前の緊張は二人共、
十分肌身に染みて、承知していた。
 ただ、兄と弟が、
親しく交わる機会はほぼ皆無の今、
朝餉の間だけでもという信雄の思いは、
伝わった。

 ふと、信長の木瓜紋の桃型兜が視界に入り、
何故ここに父がと思い、確かめると、
河尻秀隆だった。
 本来、
秀隆の馬印は金の釣り笠なのだが、
今は下賜された鉄兜を、
自身が被ることはなく、
高く掲げ、馬印にしていた。

 一瞬、そこに信長が居るのかと、
信忠がドキッとしたように、
信雄も同じくギョッとしたのか、
それが秀隆が拝領の兜だと知れると二人で見合わせ、
同時に笑った。
 笑われた秀隆だけが、
不思議そうな顔をしている。

 「与兵衛尉(よひょうえ)、釣り笠は如何した」

 信雄が訊いた。

 「はっ、そちらに」

 見ると、秀隆の馬印は、
信長の兜の後方にあった。

 「陽が射し始め、
上様より賜った兜を濡らす憂苦が消えました故、
此度は御二人を見守って頂こうと、
この与兵衛の馬印に成り代わり、
高く掲げましてございます」

 信雄が続ける。

 「上様は与兵衛が被れば、
お喜びになると思うぞ」

 「滅相もないことにござる!
末代までの家宝にて、
与兵衛が着けるなど到底考えられませぬ」

 「左様か。好きに致せ」

 信雄が柔らかに笑んだ。

 「はっ、好きにさせていただきまする!」

 信忠は何も言わなかったが、
胸に温かなものが込み上げて、
ここがやがて血の池となる戦場だということを、
刹那、忘れた。

 



 




 
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