第63話 竹丸との一夜

文字数 1,635文字

 竹丸が酔いつぶれ、顔は赤から青に変わり、
終いには白くなって、墨で描かれた悪戯書きが一段と目立った。

 仙千代は湯に浸した手拭いで幾度も拭いてやり、
何とか見られる顔にした。

 横向きで掻巻布団にくるまって、
すうすうと寝息を立てている竹丸に、仙千代は安堵した。
 酒を一気に飲むことは身体に毒で、
失神する者も居ると聞いていた。
 (うぐいす)呑み、一滴残し、車座呑み等、武家の酒宴は、
荒っぽいものが多い。
日ごろ、死と隣り合わせの暮らしなればこそ、
遊ぶ時には豪快だった。

 一つ年上だけであるのに、竹丸はいつも仙千代の世話をして、
何くれとなく面倒を見、時には真の兄のように叱ったり、
心配のあまり、怒ったり、
大根騒動の時には甘えた仙千代を殴ったりした。

 思ってもみれば、城へ上がって、特に信長付きとなってからは、
一日たりとて竹丸から教わらない日はなかった。
務めの委細から立ち居振る舞い、
御家来衆や諸将の名や顔、ほとんどを竹丸を通して学んだ。

 比べて、自分は何も竹丸に返していないと仙千代は思った。
海を知らなかった竹丸が、
仙千代の家に長逗留した二度の夏は、
確かに多少の世話をしたが、重臣の家の育ちで、
茄子の実ひとつ捥いだ(もいだ)ことがなく、
魚一匹の捌き(さばき)方すら知らない竹丸に、教えたぐらいのことだった。

 ただ、その二夏の思い出は竹丸には強く印象に残ったようで、
一人っ子の竹丸は、
仙千代や彦七郎、彦八郎と過ごした二回の夏を、
未だに時折口にして、楽しかったといつも懐かしんだ。

 仙千代は燭台の明かりを消し、部屋を出ようとした。

 「仙千代……仙千代か?……」

 竹丸が声を放つと、まだ酒の匂いがした。

 「気分はどうだ?」

 仙千代が訊くと、

 「寒い……」

 と答えた。
 酔いの名残りが悪寒を呼んでいるのだと知れた。
仙千代はさほど酔わない質だが、
元来、受け付けない体質の者は吐感や悪寒を覚えるという。

 「火鉢を借りてくる」

 「うん……」

 火鉢の炭に火を起こし、炭の赤が暗闇を仄かに照らすと、
竹丸の手が伸び、仙千代の腕を掴んだ。

 「どうした?」

 「寒い……」

 「医者、呼んでくる」

 竹丸は身を縮め、まだ寒がっていた。

 「医者は要らん」

 腕を掴まれたままの仙千代が途方に暮れて、

 「一緒に寝ようか?寒いなら」

 と言うと、掻巻を開け、仙千代を招き入れた。

 竹丸を背中から抱いた。

 「あったかい……仙の手も身体も……」

 火鉢にかざしていた手を竹丸の胸へ持っていった。
竹丸が手を重ねた。

 「温かい……本当に……」

 「うん」

 「斯様なところか、極楽は……
ふんわり温かく、ふわっと眠くて」

 「ずいぶん酒臭い極楽じゃ」

 竹丸は小さく笑った。

 「……いよいよ彼岸を渡るかと……思った……去年」

 「多芸山の撤退戦か?」

 「仙の家と同じく長谷川家も浄土宗……
一向一揆の真宗の衆も浄土宗と同じく南無阿弥陀仏……
あっちもこっちも互いが胸中、
南無阿弥陀仏と念じているかと思うと……」

 「ふっ……確かに奇怪じゃ。
法然上人も親鸞上人も呆れておいでかもしれぬ」

 「死なずに良かった……何より殿が御無事で……」

 「うむ……それに……
戦に散るは本望といえど、撤退戦で死ぬるは嫌じゃ」

 仙千代の手を竹丸が撫で摩った。

 「温かい」

 「そうか」

 竹丸を尚も暖めようと身体を密着させ、脚も絡めた。

 「仙千代」

 「んん?」

 「楽しかったな、夏の海。いつか、また行けるかな」

 「夏かどうかは分からんが、殿が連れていってくださる」

 「長島か?」

 「長島じゃ」

 竹丸がまた笑った。苦笑に違いなかった。
一向一揆衆の本城、長島の城は、
木曽、揖斐、長良という大河三本が集まる河口の中州にあって、
眼前は伊勢湾だった。

 「元旦の夜に冥途の話はやめよう。
さあ、もう寝ろ。縁起の良い夢でも見て」

 「仙千代……」

 「何だ」

 「極楽じゃ……温かい……」

 やがて竹丸の寝息が聞こえてきた。
仙千代も、いつか眠りに落ちていた。
 夜中なのか、朝なのか、何かが唇に触れたと思った。
微かに酒の匂いがした。

 
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