第380話 志多羅での軍議(14)餞別①

文字数 1,050文字

 信長の茶臼山本陣から眼下に広がる、
雨が止んだ志多羅の原には、
段丘の水たまりや細流 連吾川に、
雨の名残りの暗雲と、
明日の晴天を約するかのような白雲が映り、
やがてはこの美しい眺めが血に染まるのかと、
仙千代は気を引き締めると同時、
闘いが一刻でも早く終わるようにと念じた。
 
 一人の将の許には多くの家臣が、
家臣の下には郎党や兵が、
兵の後ろには(つま)や子が居る……
 上様でさえ、
御坊丸、武王丸といった御血筋の若君達が、
敵方に御座す(おわす)……

 合戦が長引けば死傷者が増える。
矢、(つぶて)、銃弾を受けて尚、
命があったとしても、
腕を失い、足を失い、失明し、
生きていく上での困難は、
尋常ならざるものがあった。

 信長の献杯を賜った家康、忠次(ただつぐ)
可近(ありちか)弘就(ひろなり)、藤助は、
(きびす)を巡らせ、御前を後にした。

 鳶ケ巣山(とびがすやま)砦攻略の大将は酒井忠次、
その軍勢は松平康忠、松平伊忠(これただ)
松平家忠、松平清宗ら、
家康と祖を同じくする松平十八家の三河勢が、
大凡(おおよそ)を占めていた。
 金森可近は、
忠次より二千多い五千の兵を率いつつ、
名目上「検使」とされた。

 仙千代の見たところ、
信長の意志に於いて長篠と志多羅は、
あくまで家康の戦であって、
織田軍は物量、兵力で、
徳川軍を数倍の規模で圧倒しようとも、
同盟者である家康の面子を重んじ、
家康を勝たせることで、
戦後の絆をいっそう強めることこそが、
信長にとって外しはできない要諦なのだと思われた。
 後詰と標榜しつつも勝敗の鍵は、
信長が握っている。
 かといって、
信長が三河に野心を見せることはなく、
家康が本領地 三河の掌握を盤石にして、
武田をこの地で無力化させるなら、
今の信長には十分だった。
 
 怪異なる(げん)を用いた、
日根野殿の仰り(よう)なれば、
たった一つの敗け戦でも、
当主 勝頼の求心力は弱まって、
武田は内部から崩壊を始めるだろう、
なれどあれ程の名門の武家、
果たして如何なる姿で滅びてゆくのか……

 必勝を期す大合戦を前にしつつも、
仙千代の胸中は、
この雨後の空の雲と同じく、
散り散りに乱れた。

 各陣へ戻り、戦支度に向かう諸将の見送りを、
小姓達が礼を違えず行っているかどうか、
見に出た仙千代は、
今まさに本陣を発とうという藤助を認めた。

 馬に乗り込む寸前の藤助に、
仙千代が油紙の包みを渡した。

 それは濡れ鼠姿で、
初めて藤助が信長に目通りを許された際、
長篠の砦図を濡らすまいと包んでいたものだった。

 「かたじけない」

 忘れた油紙だと思った藤助は礼を言い、
受け取った後、
油紙に何やら中身のあることに少し驚き、

 「おや!何でありましょうか」

 と、紙を開いた。


 
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