第111話 二間城 鬼

文字数 1,569文字

 織田軍が、一向一揆との戦いで長島へ侵攻し、
二ヶ月が経っていた。
 梅雨も明けきらぬ文月に岐阜を発ち、
今はもう長月初旬となっている。

 信忠の目に映る伊勢湾は、遠景に尾張の西の半島が伸び、
穏やかな遠浅の海に松の木林(まつのきばやし)が浜を彩って、
一幅の屏風絵のようだった。
 時折、ぴーひょろと(とび)が鳴き、頭上を旋回してゆく。
ここが戦場(いくさば)であることを忘れてしまうかのように、
西尾張最南端の海浜の眺めは長閑そのものだった。

 既に多くが死に、または散逸した一揆勢は、
それでも尚、残り数万という門徒が長島、屋長島、
中江の三拠点にこもり、飢えと共に日々を送っていた。
制圧された願証寺にも幾ばくか、信徒が居残っている。

 城郭や砦から、煮炊きをする煙すら、もう上がらない。
馬は食い尽くされ、草を食み、壁土を噛み、
水すらも枯れているに違いなかった。

 生命の源、海に囲まれ、美しい河川に恵まれた長島の要害が、
今は(あだ)となっていた。
掘っても塩水という土地柄は、真水を川に頼っていたはずで、
その川が織田軍の船団により埋め尽くされて、
水の取り入れ口を堰き止められている。
梅雨時は雨水が恵みとなったが、そろそろ秋に差し掛かる今、
夏を一揆衆はどのように過ごしたのか。
渇きの苦しみは飢えのそれを凌駕したかもしれなかった。

 この頃、信忠は二間(ふたま)城を陣としていた。
信長は今回の戦の本陣、小木江城へと移っている。
兵糧攻めが長期に及ぶことを見越し、
総大将と副将が一ヵ所に居ることは好ましくないとして、
二手に分かれた格好だった。

 二間城には仙千代の養父が居た。
信長とほぼ同輩で、背格好もさほど変わらないが、
信長が四十という齢であっても野性味や艶を失わずいるのに対し、
万見家当主は、
清廉な人柄を思わせる面立ちに枯淡とした味わいを醸し、
若かりし頃は血気盛んであったかもしれないが、
今は武器兵糧の管理の任にあるせいか、
元来、文事に秀でた人物であるという佇まいが見て取れた。

 信忠が仙千代の父親と言葉を交わしたのは二、三度で、
しかも手短だった。
そもそも戦闘が止んで久しい現在、武器弾薬が減ることはなく、
せいぜい兵糧の蓄えや供給について話す位のことだった。
 おもしろいのは、仙千代の父はけして口数が多くなく、
控え目な人物と見受けられるが、時に城内で見掛けると、
共に居る者達に笑みが浮かび、
穏やかな空気になっていることで、
冗談などを進んで言う質とは思われないながら、
何やら温かな雰囲気の人物で、
仙千代は血の繋がりは無いながら、
そこが父子は似ていると信忠は思った。

 儂も儂で父に似ていくのか、
いや、既にもう、似てしまっているのか……

 「根切」と聞いても心の動かない自分に、
当初、信忠は違和を覚えた。
しかし、長島の戦場に出て、
根切に頼る他、最終解決の道はないと思い知った。

 南無阿弥陀仏と唱えても腹の足しになりはせぬ、
しかしその金科玉条に追い縋り、
死すれば苦界を離れ、浄土へ行かれると念仏三昧……

 この後の作戦は、信長から聞いている。
いずれ降伏を申し出てくる一揆軍に和睦を受けたと見せかけた上、
弓、鉄砲を放ち、一人残らず殲滅させるという段取りだった。

 「心を鬼にして臨む」

 と父は言った。その父は既にもう鬼だった。
そして信忠は、鬼の意志を継ぐ嫡流だった。

 今日も伊勢湾は凪いでいた。
ごく偶さか(たまさか)、何処かからか、
刃の交じる金属音や発砲音が聞かれるが、
日に数回程度のことだった。

 二間城の主は地元の土豪で、織田家に臣従している。
信忠がこちらへ来てからは城主は別館に移り、
信忠が本丸殿に居を構えていた。
 
 岐阜の城下の執務は、小木江城の信長と連携を取りつつ、
こちらで行っている。
時折、ふっと潮の香が鼻先をくすぐり、
すると、ここは海辺の城だ、
戦場に身を置いているのだと意識が戻るが、
そんなことでもなければ、平安そのものだった。




 

 






 
 

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