第83話 古井戸

文字数 1,696文字

 未だ梅雨が明けず、日々、鬱陶しい天候が続いていた。

 信長は予定の変更を嫌うので、
文月十三日に河内長島へ出征することは決定事項となっている。

 泣いた後に顔を洗ったりしていた、
日頃は使わない古井戸が小姓の舘の裏にあって、
そこには誰も来ないので、一人になりたい時、
仙千代は時々、行っていた。

 あと十日で長島へ発つ。
準備も演習も万端で、小姓仕事もようやく一息ついていた。

 夏の午後、気の早い蝉が鳴き始めていた。
川面を渡る風は湿気を帯びて、どんよりしている。

 井戸の横に、清三郎が居た。

 何やら木の箱を組み立てていた。

 仙千代を認めると、清三郎が笑んだ。

 井戸は何も仙千代の独占物ではないが、
この場所で他の者と会うことは一度もなかった。
 しかもその相手が信忠の寵童となると、
仙千代は面白くなかった。

 せっかく静かに過ごそうと思っていたに、
よりにもよって清三郎が……

 仙千代は挨拶を受けると、それには応じたものの、
踵を返した。

 「仙様!」

 呼び止められれば仕方ない。振り向いた。

 「仙様、これ、御覧になってください。如何です?」

 鎧櫃(よろいびつ)が、途中まで出来ていた。
鎧櫃とは、鎧、兜、甲冑やその付属品を収納、運搬する為の箱で、
完成品は長立方体で、四隅や角を鉄板で補強してあることが多い。
材料は板、竹編、紙、皮革、それらの組み合わせなど様々だが、
仕上げはほとんどが漆だった。
表面には「前」「後」と表示を入れ、
左右には家紋が描かれる。

 「まだ途中なのですが、長島征伐が済んで、
こちらへ戻れば完成させます」

 桐を切り出した板を縦長に組み立て、箱型までは出来ていた。
小姓館の裏手のここが静かなので作業する際、
来ているのだと言った。

 「仕上げはどのようにするのだ」

 仙千代が訊いた。

 「漆を塗って、角や隅は金具で補強します」

 「横に家紋を入れるのだな。玉越家の家紋は何だ」

 「いえ、これは若殿への捧げ物なのです」

 未完成でありながら鎧櫃の細工の正確さに、

 なかなかのものだ、流石に具足屋の倅だ……

 と感心していたところ、信忠へ捧げる品だと聞き、
一瞬にして仙千代は不機嫌になった。

 「若殿は既に幾つも鎧櫃を持っておいでじゃ。
何故、清三郎がまた……」

 嫉妬がチリチリと焼け、気のせいでもなく胸が熱く感じられる。

 「私をどなたか御家臣の猶子(ゆうし)にして下さるのです。
町人風情のままでは何かと不安定、不便だと仰せになって。
長島へ発つまでには手続きを終えると仰って下さいました」

 信忠らしい温か味のある配慮だった。
何か手柄を立てた後でも遅くはないものを、
その気遣いが信忠の清三郎への愛慕を物語っていると
仙千代は捉えた。

 「その礼に鎧櫃を作っておるというわけか」

 「流石に具足は一人では出来ませぬ。
こちらでは材料、道具も足りず。
なれど、箱であれば、時をかければ、私でも何とか」

 「それは見上げた心意気。若殿も喜ばれるであろう」

 上滑りな台詞をただ口から吐いている。

 こんな話自体、嫌じゃ、
聞きとうない、嫌じゃ!嫌じゃ!
そんな鎧櫃も、見とうない!……

 腹立ちやら嫉妬やら被害者根性やらが混じり、
場を早く離れたい一心になっている。

 「出来上がったところで、御目にかけるつもりなのです」

 「今は秘密というわけか」

 適当なところで話を打ち切り、逃げ出したかった。

 「はい。箱は漆を緑で塗り込め、四隅と取っ手は金具、
家紋は金で入れたく思っております。木瓜紋を」

 木瓜、揚羽蝶、永楽銭等々、織田家には幾つも家紋があるが、
やはり木瓜紋が基本だった。

 「緑の色は若葉のように旺盛な生命を祈り、
家紋の金は織田家の天下統一の願いを込め、
決めましてございます」

 「漆や金粉の手配はできておるのか」

 「はい、清須の玉越の家には常に準備がございます」

 「うむ。寵童自ら手作りの鎧櫃とは、
若殿のお喜びになる御顔が目に見えるようじゃ」

 そこで仙千代は背を向け、歩き始めた。

 「仙様!」

 何なのだ、何の用もこっちは無いわ!……

 という内心ではあったが、応えないわけにはいかず、

 「何だ」

 と振り返った。

 清三郎が作業の手を休め、立ち上がり、
こちらを見ていた。

 
 

 





 

 

 





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