第117話 甘露

文字数 1,612文字

 朝に樋口直房の首級実検があり、
その首を携えて二間城へ三郎達が帰っていった後、
遠雷収まらぬ中、一揆衆の精神的指導者であり、
僧籍も持つ下間頼旦(しもつまらいたん)から小木江城に使者が寄越された。
 今回、これで三度目の赦免願いだった。
 武将は、大木兼能(かねよし)といい、
伊勢の国、大木城主を先祖に持っていた。
 現在、かの国は信長の支配下にある。

 先だって、織田家に内通し、
長島の城門をすべて内側から開けると約束した上、
反故にして、結局、籠城人数を増やしただけの一揆勢だった。

 殿がお赦しになるはずもない!……

 未熟な仙千代ですら、分かることだった。
それを重ねてやって来るとは、
城郭内はよほどの惨状であるに違いなかった。

 それこそ殿の願う姿だ、それこそが……

 信長は、兼能に、小木江の「甘露」、
つまり冷えた井戸水を出してやるよう、仙千代に命じた。

 切り取ったばかりの香り爽やかな竹筒に、
小木江城の井戸水を注ぎ、仙千代は供した。

 雷鳴と大雨の中、
敵地へ足を運んだ使者に対する礼を尽くした労い(ねぎらい)なのか、
小木江城を奪還した織田軍の優位を見せ付ける狙いか、
仙千代は後者の意が強いと思った。

 指示を受けてはいないが仙千代はもう一つ竹水筒を用意し、

 「こちらはどうぞお持ちくださいませ」

 と兼能に渡した。

 一瞬驚いた兼能は直ぐ様、謝意を述べ、
関節がやたら目立つ、痩せこけた両の手で竹水筒を頂いた。
 受け取ることは惨めであるに決まっている。
だが、この場で拒めば、
使いとしての役目を終える前に無礼討ちで命が断たれる。
 
 九鬼と滝川の水軍に川水が堰き止められている長島城は、
真水の供給が滞っている。
塩度の高い井戸水を藁や炭で濾したり、
蒸留して飲用に用いているのか、いずれにせよ、
数万という兵、民がひしめき合っている城内で、
水の供給に不足がない可能性は無に近かった。

 仙千代が取った行動は、
情け深さを装った自軍の優越性の表明だった。

 この水を下間頼旦が口にするなら、
娑婆で飲む最後の浄水となるのやもしれぬ……
戦国大名化した一向宗は、殿の怒りを買い過ぎた……
余りに殿を怒らせ過ぎた……

 兼能は平伏すると共に退出の挨拶をし、去った。
その背には悲嘆、愁嘆が見て取れた。

 これが戦の世だ、これが……
長島での殲滅の結果に、
顕如法主はどのような判断を下されるのか、
いや、一段と態度を硬化させ、
尚、打って出るのか、武田と組んで……

 天下布武を以てして、
世を平らかにせんとする主君 信長の心意、
開祖嫡流にして絶大な門徒数を誇る顕如、
二人の戦いに果たして終わりがあるのか無いのか、
あるとするならいつなのか、
戦況、時勢を鑑みて、仙千代は暗澹とした。

 堀様は熱心な真宗門徒であられる一方、
数百という前代未聞の大船団を末代までの語り草、
目に焼き付けると仰った……
儂は堀様に及ぶべくもない半端な覚悟……
堀様に、厭戦気分、けしからぬと、
お叱りを受けるも当然だ……
堀様が仰るように殿の意を我が意として、
天下布武に今は邁進すべき時……

 いつしかふたたび雷鳴が近付いていた。

 兼能が退室するのを冷たく一瞥し、
脇息に身を預け、
無言で視線を他へ移していた信長だったが、
近侍が頼旦の使者を連れて出て、
仙千代と二人になると、難しくしていた表情を緩め、

 「仙千代!」

 と大きな声を放った。

 「ははっ!」

 「近う寄れ!」

 「はっ」

 「こちらへ」

 上座の信長が自身の腿を軽く叩いてみせた。

 岐阜の城へ出仕した数えの十三の当時に比べ、
背が伸び、目方も増えた仙千代だったが、
信長は膝に抱えて座らせ、
間近で正対して甘えさせることを好んだ。

 まだ陽が高いのに……

 と思いはするが拒みもできず、従った。

 案の定、睦言混じりに口を吸ってくる。
少々相手をし、やがて、たしなめるでもないが、
まだ昼日中だと分からせようと、顔を離し、

 「誰ぞ入ってくるやも、」

 「しれませぬ」まで言おうとし、
またも口を口で塞がれ、言葉が途中で止った。


 

 

 

 

 






 

 



 


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