第282話 長篠の影

文字数 1,927文字

 翌朝、一番鶏が鳴くより前、
閨房の外に厳しい調子の声がして、
こちらが何も言わない先から、

 「御無礼仕ります!」

 と、三郎が入室してきた。

 「武田勝頼が足助(あすけ)へ攻め込みましてございます!」

 「足助か!三河だな!」

 瞬時に起きた信忠が、
半ば捨てる風で、吐いた。

 「夜陰に紛れ、進軍したかと思われます!」

 「足助の先は長篠だ!」

 「城に向かって兵を進めておる模様!」

 長篠城は七十年程前に、
今川家に(よしみ)を通じた菅沼氏が築いた城で、
信長の勢力拡大によって徳川家に服属していたが、
武田信玄による三河侵攻の一端として攻められると、
初代の直系玄孫は心ならずも武田の配下に入った。
 やがて、家康は、
奥三河に於ける武田の勢力を削ぐ為、
三河国作手(つくで)の有力な武士団である奥平氏を、
味方に引き入れることを考え、使者を送ったが、
謝言が返っただけだった。
 
 そこで家康が信長に相談すると、

 「息女 亀姫を、奥平の嫡男 貞昌に与えるべし」

 との意見が伝えられ、家康は受諾した。

 奥平氏はこの案を受け、
家康の長女と息子の縁組を許諾し、
徳川家に帰参した。
 その際、武田家に人質として預けられていた、
貞昌の正室おふう、
奥平家の次男 十三才の弟 千丸など三人が、
勝頼の命により、処刑された。

 貞昌は家康の長女 亀姫を継室とし、
菅沼氏の長篠城を開城させると、
以降、奥平家が武田軍に備え城を拡張、陣屋を築いた。
 
 昨年五月、
武田の猛攻に苦戦している徳川の救援で、
信忠は信長と共に三河へ出馬したが、
梅雨の走入(はしり)で悪路が(わわざわい)し、
間に合わなかった。
 その際、莫大な黄金を信長は家康に贈った。
信長は家康に、

 「兵糧に使うが宜しかろう」

 と、一言だけ釘を刺し、
細かなことは言わなかった。
 賢明な家康は武田に対する調略と、
長篠城の防御に金を使ったことは間違いなかった。

 奥平貞昌の処刑された正室と十三才の弟は、
耳にすれば胸が痛んだが、
戦国の世の常で、
何も父 信長だけが残忍残酷であるわけではなかった。

 儂が父上の立場であれば、
必ず同じ命を下した……
浜松殿とて、同様であろう……
そうではない武将が居るなら、
是非、会ってみたいものだ、
この現世ではおそらく一人も居ないであろう……

 三郎から武田軍侵攻の報を聞き、
一瞬の間に、信忠の脳裏で、
ここに至るまでの経緯、思いが浮かんだ。

 信忠が褥で身を起てた(たてた)瞬間、
咄嗟の勝丸は寝惚けていたが、
三郎を見ると目が覚めたのか、
屏風の奥へ姿を消すと物凄い速さで着替え、
立ち上がった信忠の許へ戻ると、
信忠の夜着を脱がせ、小袖を着せ始めた。

 尾張国の一部と東美濃の支配を委ねられている信忠は、
武田軍の浸潤を許しはできない。
三河といえば徳川だが、
父譲りの戦上手で、
勢いに乗っている勝頼の本隊が動いたとなれば、
三方ヶ原での惨敗を見れば明らかなように、
徳川軍単独では武田の敵ではない。

 「直ちに京の殿にお報せせよ」

 「手配済みでござる!」

 足助は三河の山間地で、直ぐ北が武田領である信濃、
南は徳川家発祥の地、松平に接している。
 今は浜松に居城している家康だが、
けして失うことはできない重要な地だった。

 「浜松も向かっておるのであろうな!」

 「これは本来、徳川家の戦にて、
当然のことと思われます!」

 「準備が整い次第、出陣じゃ!加勢に参る!」

 「はあっ!」

 「ははっ!」

 三郎の背を追って、勝丸も飛び出て行った。
 
 入れ替わりに信忠の身の回りの世話をする幼い小姓達が
入って来た。

 鏡の前に座し、目を閉じ、
小姓達の手早い朝支度を受けながら、
織田家と武田家の直接対決が始まると信忠は思った。
 戦を重ね、収斂(しゅうれん)を繰り返し、
最終勝利を手にするのは誰なのか。
 もちろん、織田家でなくてはならない。
父、信長の描く世を嫡男たる自分が代を継ぎ、
完成させる。

 武田には負けられぬ!
勝頼の背後に顕如が見える!……

 一年前、
難攻不落とされた高天神城を落とした勝頼は、
武田家の領土を目下、最大にしている。
 しかし、勝頼の信濃 甲斐は、広大でありながら、
農業に適した地に恵まれず、海も無い。
しかも鉄砲の弾に使われる鉛に事欠いて、
武田軍の銃弾は古銭を溶かして使っているという。
 鉛を産出する山がある奥三河の地は、
勝頼にとり、是非でも奪還すべき土地だった。
 それは家康にとっても同様で、
長篠は両軍、
ひいては織田家にとっても、
絶対奪われてはならない要衝の地だった。

 武田四郎勝頼……松姫の兄……
義兄が今や最大の敵とは……

 信忠と松姫の婚姻は、
武田の西方作戦により手切れとなった。
 しかし、信忠の中では、
松姫はあくまで正室として存在していた。
 信忠が武田討伐戦で手柄を立てることこそが、
松姫の安全を約す唯一の道だと、
信忠には思われていた。







 
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