第116話 小木江城 西方の虹

文字数 1,809文字

 笑いが収まってふと気付くと、井戸端で、
清三郎が井戸から水を汲み上げ、大瓢箪に注いでいる。

 「あれは?」

 仙千代が三郎に訊いた。

 「こちらへ来ると必ずお持ちしておるんじゃ、
副将様に、美味い水を。
二間は海が近い故、何やら水が塩っぱい気がする。
若殿は不平を言われぬ御方だが、
こちらの水をお出しすると、御顔がほころぶ」

 それは仙千代も養父(ちち)から聞き知っていた。
慣れれば左程のことではないが、飲み干したあと、
ふっと鼻先に潮香が抜けると二間の水を評していた。

 「それにしても瓢箪がやけに大きくなった。
おーい、清三郎!瓢箪を変えたのか?」

 三郎が声を掛けると、振り向いた清三郎が、

 「うむ、変えた!
こちらの水が甘いと副将様が仰せになる故、
一杯でも多く、この水をと思うてな」

 「それはまた殊勝な。
(せい)は寝ても覚めても副将様が第一じゃなあ」

 揶揄い(からかい)半分の口調とは異なり、
三郎は清三郎に温かな目を向けた。

 若殿の御世話……
三郎も清三郎も、いや、若輩の勝丸さえも、
痒いところに手が届くように、
手慣れたものであるのだろうな……
もし今、儂が若殿の御傍にお仕えしても何も分からぬ……
痒いところに手が届くどころか、
痒さを増させるばかりであろうな……

 諦観とも悲哀ともつかない心情になり、
仙千代は心中で小さく溜め息を吐いた。

 「仙様!」

 水を汲み終えた清三郎が両手で特大瓢箪を抱え、
仙千代に寄ってきた。

 「背に負うので、紐でくくりつけて下され」

 「馬に運ばせるのではないのか」

 「獣の匂いがつきます」

 「小者に持たせれば良い」

 「本日は小者達は首級を運びますゆえ」

 「そうであったな」

 信長からの書状は三郎がしっかりと身に着けている。

 瓢箪は思いのほか、重かった。

 若殿はお幸せだ、これほど大切に思われて……

 「仙様の実家も海に近いのでしょう?
水が塩分を含むということはないのですか」

 「地質の関係か、我が家一帯は左様なことはない。
ただ潮風の害で、作物の実りは今一つだ」

 「では、漁業が盛んなのですね」

 「それも細々だ。湊の整備が遅れている。
諸般の情勢不安定につき、なかなか、な。
信興公が御自害遊ばされたあとは、
織田家と服部一族が勢力を争う地となってしまった。
二間城が死守されているお陰で、
尾張の地として何とか存続をみている格好に過ぎぬ」

 「では、この戦で勝った暁には仙様の故郷も、
ようやく安寧を取り戻すのですね」

 「うむ。
総大将様がその為に全力を傾注してくださっている」

 仙千代が夢に描く故郷、鯏浦(うぐいうら)の未来は、
交易で繁栄させることだった。
伊勢湾の入り口にある地の利を生かして、
天候に左右されがちな漁業は第二の柱とし、
繁栄を見せている熱田、津島という大きな湊と連携し、
儲けた銭で水利と治水の事業を推し進め、
塩害に強い水稲や作物を探究し、新田開発も行っていく。

 「二間の水は潮の香がするとは聞いていた。
副将様は喜ばれるな、この水を」

 「はい!」

 頼まれ、言われるがまま、
仙千代は大瓢箪を紐で清三郎の背に強く括った(くくった)

 「よし!出来上がり!」

 仙千代は清三郎の尻をぽんっと仕上げに軽く叩いた。
 冗談めかして、清三郎が転ぶ真似をすると全員、笑った。

 「瓢箪太子じゃな、まるで」

 三郎の茶々に尚も皆が笑った。
清三郎も笑っていた。

 雨が上がり、西の空に虹がかかった。
虹は地平の二つの点を結び、完全な弧を描いていた。

 一同が虹に目を遣って、声を上げた。
西には、二間城を通り越して直ぐ先に長島があり、
仙千代は、

 西方極楽浄土への架け橋か……

 と、心の中で呟いた。

 「雨が上がった。大きな虹も迎えてくれる。
ちょうどあの方角が二間の城じゃ。ほんに縁起が良い。
あの根元には黄金が埋まっているそうな」

 と三郎が立ち上がると、
既に出立準備を終えていた清三郎も、

 「ああ、あの弧を渡ってみたい!
彼の地(かのち)は光りの国なのだろうか。
さぞ美しいのであろうなあ。眩いほどに煌めいて」

 と独り言のように西方を見た。

 信忠の使いの一行は、
強い雨が洗った後の清浄な大気の中、二間城へ戻っていった。

 虹はなかなか姿を消さず、長くとどまっていた。
 ただ、遠雷は残り、
もう一雨来なければ良いがと仙千代は三郎達を見送った。

 仙千代の眼に最後まで見えていたのは、
清三郎の背の瓢箪だった。
 清三郎の乗る馬が歩を進めるたび、瓢箪がいくらか揺れて、
滑らかな表皮が、
西に傾きかけた陽に艶めいて輝いていた。




 

 

 
 

 

 

 






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