第49話 傷

文字数 1,361文字

 岐阜へ帰った仙千代は、
信重がまたも新たな小姓を召し抱えたことを知った。

 小姓は飾りではなく、主君の世話をし、
夜伽もするが、長じれば信頼に足る家臣となって主に尽くし、
手元を離れて他の大名の与力や奉行となっても、
配置された先で尚、裏切りに目を光らせる。
 顔触れに入れ替わりがあるのだから、
常に補充が必要なことは間違いなかった。
 新たに加わった小姓は清三郎に似た面立ちであることで、
信重の愛童なのだと仙千代にも知れた。

 信重の立場も小姓の役割も分かっている。
分かっていても、
何かと不慣れな新米小姓に信重が優しく接しているのを見ると、
あらゆる負の感情が渦巻いて、発狂しそうになる。

 鏡を見ると、仙千代の目は赤くなっていた。
泣いた覚えはない。涙は枯れた。
(から)の涙で赤いのか、鬼の心が赤くしたのか、
充血した白眼を見、仙千代は自分を醜いと思った。

 若殿にしてみれば、
当たり前のことをなさっているだけ……
次の御当主となられる御方が、
為すべきことをなさっているだけ……
その何処に儂は文句を言うのか……
こんな未練は見苦しいだけじゃ……

 気付くと、左の内腿に短刀を這わせ、
ぐぐぐと刃を引いていた。
傷は五寸ほどになった。
 短刀は信長から拝領したものだった。
夥しく(おびただしく)血が流れ、床を濡らした。
その血が涙だと思った。痛みは無かった。
ただ、心が痛かった。

 数日後、傷を見た信長に、
何をしたのかと気色ばんで問い詰められた。
答えに窮した仙千代は、

 「痛みを知ってみとうございました」

 と口走り、ひどく叱責を受けた。
信長が仙千代にそこまで叱ったことは初めてだった。

 やがて、非常な困惑を見せた信長は、
幾度も溜息をついた後、

 「悩みがあるなら申せ。何か苦しいことでもあるのか。
何が足りぬ。戦が恐いか?」

 と言い、仙千代の乱れていた髪を直した。

 「悩みなど……あろうはずがございませぬ」

 「家が恋しいか?」

 「仙千代の居場所は殿のお傍でございます」

 「ならば、戯れにでも身体に傷をつけるでない。
少々の傷で高熱を発し、死ぬることもある。
仙千代の身は仙千代のものであって、そうではない。
仙一人のものではないのだ。分かったな?」

 「はい。申し訳ございません!……」

 最後は信長に抱き着いて、空の嗚咽をこぼした。
やはり、涙は出なかった。
 信重……既に信忠となっている……の為に流した涙は、
もう枯れたのだと仙千代は思った。
 ただ、信長を裏切っているのではないか、
信長に別心を抱いているのではないかと思い悩み、
仙千代は心が揺れた。

 信忠は、仙千代が目の前に居ても、
居ないように扱うか、声を掛けねばならない時は、

 「万見」

 と呼ぶ。
 それでも呼び掛けられれば、
それだけで嬉しい自分の心の在り様を、
信長に対する背徳だと仙千代は捉えた。

 殿に、もっともっとお仕えしなければ……
衷心よりお仕え申し上げ、お役に立たなければ……

 嫌われても諦めきれず、
どうしようもなく信忠に惹かれながら、信長に尽くす。

 日々一刻一刻、仙千代の心は揺れた。
脚の傷が疼く時には、
信長への申し訳なさと信忠への恋慕が相まって胸が苦しくなった。
信忠への思いが消えた時、
信長への真の忠節が成るのだろうと仙千代は思った。
しかし、それがいつになるのか、
果たしてそのような日がやって来るのか、
仙千代には分からなかった。



 

 


 



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